シベリア抑留

      

  私の幼少年期        5
  現在の私の日常       8
  回想            12
  徴兵            12
  最前線覇王城        25
  最前線での負傷       29
  陸軍病院での入院      31


  再び最前線での任務     34
  大山小大長の死       37
  終戦            39
  シベリヤ抑留記(移動と労働)41
  収容所での休日       49
  収容所での食事       51
  共産主義教育の始まり    53
  私の特技を生かして     55
   暖房           56
  日本に帰還         58
  就職活動          62
  結婚妻、貞子の事      68
  水彩画画家へ出発      69
  失業            72
  母、フクこと        79
  子供の事長女和子長男正彦  81
  フランスの旅        86
  私の水彩画         99


 私と水彩連盟展       107
 画歴            112
 私の父親像         115

 

   私の幼少青年期、戦争体験  

私は、今年戌年で満九〇歳になりました。永い人生のなか数々の危機に瀕し、自分自身を失い欠けたときもありましたが、その時も自暴自棄に陥らずにひたすら明日の事を考えて絶望的状況の中でも希望を失わずに好きな、絵を描いて今日まで生きてきました。こうした今日を迎えるには、数々の戦友に守られ多くの友人、知人、家族兄弟親族皆様のお蔭だと思っています。
九十歳になろうとしている老人が今更何を語りたいの、などと思いますが、これでも体を張って生き抜いてきた体重57,5キロ、身長167センチセンチほどの老人が言っているのですから。まあ話に付き合ってみてください。

 現在の私の日常
鶴見にあった富士自動車の研究室で塗装担当の仕事をしながら水彩画を描きだして勤労者美術展に出品し始めたのが30を過ぎた頃ですから25年、以後35年の歳月が流れ。あわせてかれこれ60年の歳月が過ぎようとしています。10時には画室に入り描くときは1日中になることもあります。
  それは今も同様に続いています。そうした私の影響を受けたのか長男正彦も画業を主にとする生活しており今年56歳になろうとしています。
最近正彦が小田原で絵画の展示会に作品を出品していると本人から聞き、さっそく小田原に彼の運転する車に乗り妻貞子と一緒に展示会を見てまいりました。展示会場は小田原の新九郎と言うギャラリーで書店の3階にありました。展示作品はデッサン類や人物画を描いたものが主で25人程のグループ展でした。相変わらず正彦のデッサンはリアルで印象に残りました。 帰りに一緒に食事でもと思い貞子と3人で々の夕食を共にしました。いつも物静かで今まであまり私の前でしゃべったことがない正彦が、突然「戦争体験話を聞かせてくれよ」と言ったので、さてどこからしゃべったらいいのか、しばらく考えておりました。
すると正彦は「忘れてしまったの」と言ったので「そんなことはない、よく覚えているよ、忘れたくっても忘れられないよ」と言いました。
「どこから」と尋ねると、「最初から」コーヒを飲みながら、日焼けした顔の正彦が、目線をこちらに向け半ば真剣な眼差しで微笑みつつ私の言葉を待っているのが感じ取れました。 

    回想

実は私は兵隊に現役で行ったことや、中国の北支で終戦を迎えたこと、その後列車に乗せられ日本とは正反対のソビエト連邦シベリヤに送られ、4年間も強制労働させられたこと、やっとのことで、日本に帰還、その土を踏むや否や敗戦後の荒れ果てた状況に愕然、ほっとする暇もなく、就職活動、シベリヤ帰りは思想教育を受けているからと言う理由で、雇い入れてくれる会社、皆無、そんな状況が私を待っていることなど知る由のなかったことなど、折につけ語ってきたつもりでいました。
でもほとんど聞き流していたのか戦争を知らない世代の息子に半分以上あきらめの思いでおりました。
話してもナンセンスと言われるに違いないと長年思っておりました。
やっと、この私の話を聞くことができる歳になったか、それではと正彦の言葉に動かされやっと、機は熟したか、半分期待を込めて語ってやろうかという思いがこみ上げてきました。さて私は1922年平塚市に生まれ、家は現在港になっているところにありました。須賀仲町九三〇番地、先祖は代々船による運送業を生業としていたようです。
私の父は伝太郎と言い、須賀では代表的な運送船、「春日丸」という船を所有し主に砂利を京浜千葉方面などの港に運ぶ仕事を生業とする、運送業者でした。母はフクと言って、気立てがよく面倒みの厚い人で多くの人に信頼されていました。
何人かの人を雇い仕事を切り回していました。所謂賢夫人というところでしょうか、私は比較的裕福な家の長男として育ったのですが、私の上にヨネという姉がおり、幼少のとき溺死した兄がおりました。下に弟の秋蔵、妹の文江、死んだ兄を加えると5人兄弟の二男ということになりますが、事故にあって、兄が死んでしまったので私が長男として育てられ、昔の習慣にならい家を引き継ぐことになりました。
私が尋常小学校1年生の折、図工の時間、飛行船の絵を描きました。その絵が担任の小早川先生に褒められ、教室にお張り出しになりました。
内気であまり人前で話すのが下手な私にとって先生に褒められた最初の出来事でした。そのことが現在に至る、私の水彩画家としての人生を方向ずけたと言っても過言ではありません、その後横浜にある商工実習校に入学、卒業後は海軍技術研究所「化学研究部」に就職しました。
主に毒ガスについての研究がその主たるものでした。そうした私が初めて絵の手ほどきを受けたのが小西秀逢という日本画家でした。小西先生は当時茅ヶ崎にアトリエを構えられ歴としたプロの画家でした。
そうした先生のところへ休日になると時折遊びに行き、先生も快く私を迎え入れてくれて、行くと時折大きな筆を持ち何も見ずに白い紙から踊りだすような竜を描いて見せて
くれました。
小西先生の影響か、その頃から絵筆を持ち平塚のあちこちを写生することが楽しみとなりました。日本と中国との間で戦争となり、私が出征することを先生に告げると、小西先生は千里の道を行き帰る虎の絵を描いて私にくれました。

 

徴兵

二〇歳の時徴兵検査、医者や看護婦の前で全裸となりいろいろ体を調べられるのですが私当時の平均より少し背が高く痩せてひょろひょろしていたせいか第一乙種合格でした。身長160センチくらいでずんぐりした人は甲種合格で、ちなみに丙種は不合格でした
そうした私が入営したのが二一歳の時です、兵舎が山梨県甲府にありましたので、そこに1週間ほど過ごした後、上官から「明後
日出発につき、別れをしたい者は、家族親戚に電報を許す」という命令が告げられました。翌日母フクと義理の兄そして叔父が見送りに来てくれました。おふくろは御萩を作って私に手渡してくれました。
義理の兄は、「喜代次君、お国のためにしっかり戦って来てくれたまえ」という言葉をくれました。出発は深夜3時、ゆっくりと動き出す夜行列車にのりどこへ行くとも知らされず、1日本兵として、軍服に120発の弾丸の付いたベルトをしめ、銃剣を腰にぶら下げ、背中に重い背嚢を背負い、3パチ式歩兵銃を持たされ、鉄兜を被ったとき、出征するとはどういうことか、初めて知ることになりました。
その時から私は個人としては存在しなく、1人の兵卒としての重責を国から強制的に課せられたということです。有無を言わせぬ巨大な国家のために奴隷のようになって、戦い死ぬ運命を決定ずけられた戦争の道具になったわけです
今で思うと恐ろしいことです、何が善で何が悪であるかは、すべて上官の判断で行われそれに絶対服従するのが兵隊にできるただ1つのことなのです。 
もし戦闘拒否、命令不服従、脱走でもするなら銃殺が待っていました。こうした軍隊の在り様を美化しようとするならとんでもない間違いだと思います。
上からの命令であれば無抵抗の人間の命でさえ奪い取らなければ自分の命がないわけです。こんな非人道的なことですら有無を言わせず、行わせられるのが軍隊なのです。

 

戦地中国へ出発

私たちを乗せた列車は三日後下ノ関に到着、そこから船に乗り日本海を渡り釜山港に到着、また列車に乗り南満州鉄道を行くこと三か月、奉天をぐるりと回り最前線の河南省の新郷に到着したのは、秋も深まり野山の木々もすっかり葉を落とす頃となっていました。そこから三里位行ったところに老田庵(ローデアン)という村に教育兵舎がありそこで三か月教育を受けました。

最前線覇王城

すでに破壊された橋のない黄河でしたが、残った橋げたと柱にロープでつないで1人ずつ籠に乗り流れの速い川を渡ってやっとのことで対岸にたどり着きました。
任務地は一二〇メートル程の覇王城、山の谷を挟んで約三百メールほどの距離に敵陣営があり、下は深い谷底が広がっていました 
敵は蒋介石軍いる正規軍が陣取っていました。日夜を問わず毎日かわるがわる鉄砲を対岸に向け、少しでも敵が頭を見せると銃を撃ち逆に、少しでもこちらが頭を見せると弾丸が飛んでくるという有様でした。
少しの油断も許されぬ膠着状態が続いておりました。私たちは7人程の分隊でした。
最高司令官の名は杉村良平隊長でした。分隊長は本部と常に連絡を取り、一日の行動は隊長からの命令に従って、来る日も来る日も活動していました。
配給物資の糧秣(食料)は、三日おきに本部まで取りに行くのが日課でそのために、

まだ幼い12歳ぐらいの現地住民の中国人少年章本(ショウポン)君を雇い、体の小さい少年の後ろを兵隊が歩くといった形で行っておりました。
何ともおかしな光景でしたが、もちつ、もたれつの、関係がそこにあったようです。1里ほど行ったところに我々の補給基地がありました。そこで米や味噌、ジャガイモを受け取り天秤棒を少年に担がせ我々の任務地の覇王城に向かい、上り坂をゆっくり戻ってくるのです。その当番が二週間おきに回ってきました。
普段は戦闘配備につきながら1日に1回は軍事訓練が行われました。すでに鉄砲の打ち方や基本的な事柄は教育兵舎で、学んでおりましたが、敵と接近戦になったらどう戦うなどということが中心のようでした。当然敵に狙われない安全なところで行うのですが、素早く走り素早く身を隠すといった訓練もあり危険地帯ぎりぎりまで使って毎日決まった
時刻に行われました。


     
最前線での負傷
                         
そんなある日私は足を滑らし我々の陣地から五〇メートル程離れた陣地にの急斜面に転落してしまい、谷底へと落ち敵に体をさらけ出してしまったのです。その時足を強く打ちつけてしまい、動きが取れない状態でいました。自分でも骨折したかなと思いました。山の上から私めがけて集中銃撃を食らいましたが、幸いにして弾は足をかすっただけで済みました。暫くすると同じ小隊の近藤さんが銃弾のあらしの中、命がけで助けに来てくれました。私たちは暗くなるまで待ち、近藤さんの肩をお借りして安全地帯へと戻ることができました。

 

   陸軍病院での入院生活

その後私は新郷の兵舎病院で手当てを受け1週間後北京大学の校舎に日本軍が作った
陸軍病院の病棟に入院することとなりました
そこで私の足は頑丈に石膏で固めたギブスに固定され食事から排尿、排便まも不自由な生活を送ることになりました。
そうした入院生活が三ヶ月続きました。私の隣のベッド人は関西弁でしたので関西の人ではないかと思われましたので、尋ねると奈良出身若林という名の人で私とは一級下の方でした。彼は地雷を誤って踏んでしまい右大腿部から切断した状態でした。かれは戦闘に復帰できない体になってしまっていましたから、傷口が塞がれば母国に帰る予定となっていました。戦地では何が幸いするかわかりません、彼は生涯傷痍軍人として生きていかなければならない身になってしまいましたが、これで銃弾を受け骨になって帰ることはほぼ90%なくなったのです。
それから私の方は骨がつながりギブスを外す頃と、なりました。3か月固定されたままでいたのですから私も足はそう簡単に動きません、
今度は体を1日でも早く動かせるようにリハビリのため、湯治場で1ヶ月ほど過ごし体を温め、自分で足を揉みやっとのことで元のように足が自由に動かせるようになったのは3週間後でした。

 

 再び最前線での任務

そして原隊に復帰、新郷兵舎に戻りましたらすっかり以前の分隊の仲間はおらず、聞くとによると南方に動員されたようでした。
そのことが後になって生死を分けたということになりました。私を向かいいれてくれたのは年が二歳ほど若い初年兵でした。私も1階級上がって上等兵になりました。
その頃は覇王城でのにらみ合いの戦闘はすでに終了して、討伐に行くことが多くなりました。
ある日、中国人村が、日本軍と八路軍との戦闘によって壊滅的に破壊が行われたという情報が入り、真夜中たたき起こされ、その村に分隊で行くことになりました。到着すると戦闘はすでに終了しており住民は山に逃げて、家は叩き壊され、あちこちに味方の兵隊の屍が散乱しているという状況でした。
さっそく近所からマーチョという馬車と馬を調達して、遺体を乗せ味方のいる陣地ま

で運んできました。陣地に到着するとこれらの遺体をまとめて火葬にして骨だけにするのですが、これがまた大変な作業でした。すっかり骨だけになったものを今度は誰の骨かわからず認識票が骨についているものから骨壺に詰めることをしました。そうしことの繰り返しがこの戦場で課せられた任務でした。

 

大山小隊長の死

血気盛んな大山小隊長がある日、敵陣へ討伐に行き戦死した知らせを受けました。さっそく遺体収集に向かいました。行ってみるとあんな立派な人が軍服も脱がされ、ふんどし一丁にされ放り出されているのを仲間が発見、見るも無残な姿で倒れていました。何も大山さんほどの人がいったいなぜここまで討伐に来る必要があったのだろうか、という思いがこみ上げてきました。戦争とは人と人を
殺しあう関係にさせてしまう、誠に恐ろしい状況を作り上げてしまうのです。大山さんら七人程の遺体をマーチョョに乗せ運ぶことになり、この人にも親や兄弟がいただろうに誠に残念なことになってしまったと思い、目頭を熱くして帰路につきました。
こうした戦闘状況が2年過ぎたころ、サイパン陥落、硫黄島玉砕の噂が仲間内から聞かされました。これで日本もいよいよだなと心のうちで思いを巡らせていました。その後沖縄戦敵軍上陸が開始され、沖縄も陥落、広島と長崎に新型爆弾が落とされたことも、どこからともなく伝わってきました。

 

終戦

そして敗戦日本がとうとうポツダム宣言を受諾して無条件降伏したことを、私は北支
で知りました。さあこれで終戦、やっと生き延びて日本に帰られる期待で胸を膨らませて列車乗り込みました。列車は、定刻にゆっくりと走り出しました。満州奉天駅前で武装解除を受け、手帳や写真まで取り上げられ、捕虜同然のかっこうで宿舎に一週間ほど、そしてある日、列車に乗せられました。その時はウラジヲストックに向かい日本に帰れるのだ、かとばっかり思っていました。半月ほど乗って、「どうも様子が変だぞ、この列車は西に向かっているぞ」と仲間内からささやき
声が聞こえ、車窓を見ると風景が確かに違っていたのです。
次第に目の前にバイカル湖が見えてきました。その時、日本に帰るという希望は完全に打ち砕かれてしまいました。

 

シベリヤ抑留記 移動と労働

シベリヤに着くまでは、ハルビンからブラゴエチェンクスそして、ハイラルをとおってバイカル湖の手前の駅に着きました。それからウランウデのちょっと先の駅のないところで、降ろされました。
見渡すと五百人から六百人ほどの日本兵がいたでしょうか、収容所はそこから半日ほど歩いたところにありました。
収容所はかつてドイツ人捕虜が収容されてたところで周囲は鉄条網のフェンスで囲われており、三か所の見晴らし小屋に監視兵がおりました。
収容棟は全部で三棟あり1棟に二百人程寝起きができる二段ベットがあり12畳ぐらい仕切られて、細長くうなぎの寝床のように続いていました。壁は丸太小屋のようになっており、窓は各部屋にⅠつ程あり2重ガラスになっていました。
翌朝から旧日本陸軍が使用していた防寒着が支給され、さっそく17人ぐらいのグループにわけられ外で2列になり整列、人数が数えられ確認が終わると、森林のあるところまで歩かされ、直径40センチほどの赤松や20センチほどある白樺の木を両引き鋸や斧で切り倒す作業を1日やらされたものでした。
細い枝は集められ燃やし1時間に5分ほどその火にあたり体を温めることがゆるされました。とにかく気温がマイナス37~8度の所での作業ですから防寒着を着ているとはいえ尋常な寒さではありません。一時間に五分では、とても足りません、体の弱い人はその場で倒れて凍死です。幸い我々のグループからはそうした人は出ませんでしたが早朝の整列の時起きてこないので部屋に探しに戻っ
たら冷たくなっておったという人が何人もいたことも事実です。
確か外気温がマイナス四〇度になると外出しなくてもよいという命令が出るのですが、マイナス40度にはめったにならないのです、こうしたことはマイナス三九度を体感した者でないと解らないことだろうと思います。そうした作業をすること一か月たった頃移動命令が出てどういう訳か、アメリカ製のトラックに乗せられ、イルクーツクの街中にある大きな二階建の収容所に収容されました。そこはバイカル湖が一望できるところにありました。そのそばに蒸し風呂小屋があり1ヶ月に一回ほど入浴が許されました。
そこでの作業は道路工事が主で、道のふちを深く掘り、土管を敷設するといった作業でつるはしやスコップといった道具だけで作業するのですから、疲れること疲れること尋常ではありません。
食事は朝昼2食分おかゆ一杯と黒パン1かけらスプーン1杯の砂糖だけです。昼もそれらを弁当として重労働するのですから、腹が減ってたまりません、考えること語ることは食べ物の事ばかりだったことを記憶しています三十人程のグループごとに1つの工事作業をしていました。
その作業中にわれわれの事をあわれに思ってか、仕事中の2人3人に老夫人がクッキーや黒パンを皆で食べるようにと手渡してくれました。そのことは、今でも忘れることができないほど嬉しいことでした。
かつての伐採作業よりは道路工事の方が幾分楽なような気がしましたが、朝死んでる人は相変わらず同じ位だったようです。
病気を発病したら病院棟に隔離されますが、ほとんど死亡するのが常のようでした。
死亡者が出るのは殆ど冬の寒い時で、栄養失調と寒さによる突然死でした。
遺体は寒い冬マイナス30度の中で土葬するのですが、土が凍っておりせいぜい30センチから40センチ、1人入る穴を掘るのに丸1日かかりました。

 

収容所での休日

一応日曜日は休日となっておりましたが午前中は大掃除、床から窓から、便所手洗い場がおわるとベッドの寝具をきれいに折りたたむ作業が待っておりました。それが終了したのち看護の女少尉が来て点検に歩き周り少しでも汚いところが見つかると「ニーハラショ」とえらい剣幕でやり直しをくらうのです。よろしいと言われた日は午後から自由時間となりますが収容所内での自由時間ですから何することもなく仲間内でただ食べ物の話や来年の春には帰れるのだろうかなどの話が出たと思うとまだ3年くらいはだめであろうとか意見が錯綜して床に就く時間となってしまうのです。

 

収容所での食事

日本兵の中からかつて炊事兵として働いた経験者が2~3人選ばれ炊事専門、あたることになっておりました。その人たちはとにかく毎日の重労働からは解放され厨房で、高粱と麦に少しの鮭の混ざったおかゆを作り、黒パンを全員に約3〇〇グラムを配りました。おかゆは飯盒の約3分の1それと砂糖1さじそれが朝昼晩に1日3回とても重労働に見合った食事ではありませんでした。たまに鮭の肉が少量はいったおかゆが、出ることもありました。昼の弁当にもらったものは、朝殆ど食べてしまい。昼には手当たり次第食べ物を探し残りの粥に入れて炊きました。
赤蛙とか草ではアカザが美味でした。ともかく1年中腹が減って仕方のない状態で皆ふらふらでした。

 

    共産主義教育の始まり

当時のソ連日本兵共産主義の教育をして啓蒙して日本に送り返し日本を共産主義化しようとする目論見がありました。日本兵の中からそれに共感しソ連共産主義の理想を語ることができる人材を見つけ出しては、日本語の堪能なソビエト軍人に教え込ませていました。そうした日本人を『アクチブ』と呼んでおりました。そのような教育が始まったのは抑留生活三年を過ぎたころよりだったと思います。教育は各グループに分かれ、その理念を耳にタコができるまで聞かされたものです。また『アクチブ』になった捕虜は収容所でも楽なところへ回されるという特典つきだったようです。逆にそうした思想教育に反論の素振りでも見せたら監獄のようなところへ追いやられるという噂を、耳にしたことを覚えています。


 私の特技を生かして

すべて日本語で書かれた通称壁新聞のカットを頼まれて描いたことがあります。そうしたことで評価されると、一日労働から解放され特別にしつらえた部屋でくつろぐことが許されます。まさに芸は身を助けるといった言葉通り、の一日を過ごしたことを覚えています。今強制労働を強いられた時のことを思うと、普通の日常の生活が不思議と天国にいるような気持にさせられるのです。 

 

暖房

外はマイナス37度でも部屋の中は20度程に保たれていました。それは部屋ごとに煉瓦でできた四角い暖炉のようなもので、ペーチカと呼んでおりました。燃料は石炭その暖気が部屋を、ぐるっと一回りして煙突から排出されるのですが、一応暖かくはなっておりました。燃料の石炭は豊富にありました。昔ソビエトは戦後貨幣価値が急落した国で、給料がトラック一杯の石炭で支給されたという話を聞いたことがあります。北欧では石炭は生活する者にとって必要不可欠のものなのです。

 


日本に帰還

四年を過ぎたころダモーイ列車(帰還列
車)が走っていることを仲間の1人が発見いたしました。というのは日本人を乗せた列車の中から一人の日本人が手を振り、「帰れるぞ」と叫んだのをと確かに聞きとったとを話してくれたのです。その時、ほのかな希望が、芽ばえてきたのを覚えています。それから半年たった頃、やっと帰還命令が出て帰還列車で東へ向かう列車に乗り込み一か月程でナホトカの港にたどり着きました。日本の輸送船がなかなか来ず一週間待ちました・・・その間も道路工事の仕事をさせられました。
やっとのことで、日本に向かう船に乗り込んだ時は、人生最高の喜びでありました。その気持ちは今でも鮮明に覚えています。また幽かに日本の陸地が見えてきたときはあまりの嬉しさで、涙が止まりませんでした。周囲の人も、涙をながしていました。お互い体を抱きしめあって喜んだものです。そして日本の舞鶴港に着いて検疫、身体検査をして宿坊に二泊いたしました。 
そして、生きて帰ってこれたことのありがたさをその時ほど感じたことは、後にも先にもありません。
それから仲間と別れ、それぞれの郷里に向けて列車に乗り込み私は小田原駅に到着、新聞で聞きつけたか勝利叔父と従兄弟の勝さん(マサルさん)が迎えに来てくれました。八年ぶりの再会でした。3人で平塚駅まで帰り、まずは氏神三島神社に参拝、須賀の近所のおばさん叔父さんに帰還の挨拶を済ませ家に向かうとすると家があったところは港になっており家ごと現在の夕陽ヶ丘に移設されておりました。そこで母のフクと父の伝太郎に再会いたしました。
その時の両親の喜びようは、今でも忘れられません。またその時、弟の秋蔵が兵役の年齢でないのに自分で志願して中国に行っていることを知らされました。終戦満州で迎え同じくシベリヤへ送られていることを、後で知ることになりました。
幸いにも弟の秋蔵も無事帰ってきました。

 

   
就職活動

帰ってきた喜びに、いつまでも浸っているわけにはいきません。さっそく就職活動を開始しなければなりませんでしたが、終戦から四年経っているとはいえ、日本がこんなにもアメリカ軍の爆撃で廃墟になっていたとは思いもよりませんでした。
それでもたった四年であちこちに工場が立ち上がっていました。しかしまだ人を大量に雇う会社は少なく、シベリヤ帰りの男は共産主義の教育を受けているので、会社ではあまり歓迎されないという風評が出回っていました。
そうした折、私が帰ってきたのを新聞で見たのか、かつての海軍技術研究所の後輩の田代さんが、私のところまで訪ねてきてくれて、豆炭の会社の営業部で働けるよう手筈を整えてくれました。仕事は豆炭の販売網の拡大、「商品として仕入れていただきたい」サンプルを持ってあちこちの商店へ品物の売り込みでした。
口下手な私には大変苦労する仕事でありました。1年程働きましたが、この仕事に就いていけず、実はこの時私は転職を願っておりました。
そうした折、大船に住む兄は鶴見地区の職業監督所監督官をやっており、私が転職したいと申し出ると、兄が鶴見の大黒町にあった富士自動車の工場長を紹介してくれて採用されました。
当時朝鮮戦争の特需景気で工場の仕事を拡大しようとしていた会社でした。初めは現場の仕事をやっておりましたが海軍技術研究所で働いたことが評価され研究室勤務となりました。
研究室には、私を含めて四人で同志社大学の化学科卒業の高野さん、米沢高校卒業の黒崎さん、あともう一人は忘れましたが私以外三人は高学歴の人たちでそれらの人々に教えていただきながら接着剤の研究や塗装の技術などといったことを研究していました。自動車工場なので車のハンドルも作っておりました。
木製ハンドルの絵を私が描き壁に貼っておきましたら、工場長の目に留まり、それが評価されたのか翌日から1週間ほど工場長と1諸に工場内を視察することになりました。
その時当時国産の自動車はあまり需要が伸びず、主な収益は朝鮮戦争で大破したジープや輸送トラックの修理といったことに依存していることがわかりました。戦争が終わる
と、工場は閉鎖に追い込まれると思いました。案の定、戦争終結とともに私は失業の身になったのでした。

 

    結婚妻、貞子の事

富士自動車に勤務していた折、人を介して、見合いすることになりその時出会ったのが現在の妻貞子です。妻貞子は伊勢原生まれでその時は小学校の教員をしておりました。当時は人手不足で女学校卒業していれば教員になれたようでしたが、貞子は師範学校卒業(今の横浜国大)でした。戦争で男が少なくなってしまっていたこともあって、結婚が成立いたしました。

 

 水彩画家への出発

私は青年期に正式な美術教育受けたわけではありませんので、デッサンなどは見様見真似で描いておりました。研究室務めであることが幸いして仕事を終了して社内での文化活動が許され、美術部に入部して静物を油絵で描きました。
それを、神奈川勤労者美術展に送ったところ初出品で特選に入り、その後全国勤労美術展では労働大臣賞を受けました。その時の審査員が木下孝則、加山又造で加山先生から「木下先生が大変褒めていたよ」と知らされました。その後絵を学びたいという思いを家内に打ち明けたら家内が茅ヶ崎で中学の美術の先生をしていた三橋兄弟治師を紹介され、当時上野の東京都立美術館で開催されている水彩連盟展にさっそく出品するように指導を受けました。
八〇号ほどの作品を2枚描き出品しました。描くテーマは抽象的に構成されたトロッコシリーズでした。その作品が当時水彩連盟という公募展に受け入れられ、四年程の出品で会員に推挙されました。
それ以来水彩連盟1筋に五六年出品し続けております。若し水彩連盟の会員になっていなかったら、これほど大きな絵を描くこともな
かったと思います。


    失業

朝鮮戦争終結とともに富士自動車は倒産し失業の身になりました。
幸い妻の収入がありましたから食べるには困りませんでしたが、といって絵を描いても売れる見込み込は一向にありませんでしたので、再就職を鎌倉の義理の兄にお願いしたところ鶴見にある日東味の精という会社に就職することができました。
そこでは経理事務をしていましたが、当時、味の精はカセイソーダから作られるグルタミンソーダを作り食料品店に並べておりました。それに競争相手の大会社味の素がありました。
グルタミン酸ソーダはご飯にかけて食べるとおいしく食べられるのみならず頭がよく
なる化学物質であるという、世間的評価が幸いして売れ行きを伸ばしておりました。次第にその人工的に作ったグルタミン酸ソーダを多量に摂取すると体に悪影響及ぼすといった内容の研究報告が新聞で告発されてから急速に消費者が購入しなくなりグルタミン酸ソーダのみ作っていた味の精は倒産の憂き目にあいました。
当然私もまたしても失業、でも希望すれば親会社の鶴見ソーダで雇い入れてくれるという条件付きの失業でした。
当然今度は鶴見ソーダに就職いたしましたが、いままで事務系で働いてきたのに仕事が毎日現場での重いものを運ぶ作業が多くなりました。時には手にバケツ1杯半ほどもって階段を上り四階までいく作業の重労働でした。あれは会社側から自ら退職をするように仕組まれていたのかなどとも思いました。義
理の兄はすでに他界しており頼るすべはありません。結局肉体がついてきませんでしたので1年程で退職、地元平塚で職業安定所での世話になることになりました。失業中当時は職業訓練所で給料支給されながら自動車の運転講習が受けられルことができそこで3か月ほどで免許取得いたしました。
すでに妻は働きながら自動車学校で免許を取得していましたから、妻の乗るホンダk360という当時人気の軽自動車があり私もその車を使って夫婦で新潟方面まで行ったことを覚えています。
それからこの機会に画家になりレタリングの看板業を副業に始めようとしましたが、副業も画業も一切職業にならないのであきらめました。
そして安定所から紹介されたフランスベッドの集金係をしましたがこれも私に向いて
おらず退職、最後はエアーフィルターという空気清浄器を作る会社に45歳より55歳まで勤めました。現場での作業でしたので生傷が絶えませんでしたが一〇年勤め上げ五五歳で定年退職をそのまま受け入れ、画家一筋でやっていこうと思う決意が妻や母に認められ文字どおりの水彩画家になりました。
でも厚生年金は富士自動車時代から継続して入っておりましたので六〇歳からもらえることを前提にしておりました。
妻も小学校の教員の音楽専科を任されておりましたので、自動車で通勤をするようになりました。以後勤務が多少楽になっていったようです。五十五歳からは妻貞子の扶養家族になり私も安心して画家としての毎日を送れる身となりました。
                    

    母、フクの事

 

父は私が戦争から帰ってきてからずっと病気がちでほとんど寝たり起きたりの生活でしたので、昭和36年78歳で気管支炎から最後肺炎で亡くなりましたが、母フクは丈夫で八五歳を過ぎるころまで朝から食事の用意夕食の支たく洗濯まで1家の主婦がするすべての事をしてくれました。そのおかげで妻が五五歳まで勤めることができた訳です。長男が結婚してその間にできた子供が一歳の誕生日を迎える前九二歳で他界いたしました。今思うと私は2人の女性によって支えられたということになります。1人は母もう1人は今も健在の妻貞子です。
 
子供の事 長女、和子 長男、正彦

長女和子は小さいころから明るく友達付き合いもよく学業成績も普通以上だったようです。家から近いところに高浜高校という女子高がありましたので、そこに進学卒業後は
横浜の栄養女子短期大学に進み、結婚し長男長女に恵まれ現在、横浜の保土ヶ谷区に家を購入し生活しています。長男の正彦は私の影響か小さいころから絵が好きで暇さえあれば絵を描いている感じでした。高校は大磯高校に進みましたが勉強が面白くないのだか家に帰ると期末テストの前でも絵ばかり描いておりました。私がやったこともない石膏デッサンなどに夢中になっており夜遅くまで学校の美術室でデッサンに励んでもいたようです持ち帰るデッサンはどれも素晴らしいものばかりでしたが私はデッサンの専門的基礎教育を受ける機会がありませんでしたので、息子には何とかしなければと思っておりました。三年生になった折、本人が東京の予備校で夏期講習を受けたいと申したので、お金を二十万円程だして行かせました。本人は東京の予備校の体験から大きな劣等感に打ちのめされていたようでした。
全国から集まる絵描きの卵がそろうところだからあたりまえだよ、と励ましたことが、あります。言わずとも画家では食べていけないのが正彦自身私を見て解っていたようで、浪人して芸大を目指すことは考えていなかったようです。
私が東京造形大学という素晴らしい大学ができたことを話すとさっそく資料を取り寄せたようです。すると息子が取り寄せた学校案内に、佐藤忠良という名前が書かれておりましたので、さっそくこんな有名な先生に指導を受けたらいいなといったことをおぼえています。
そうした言葉に影響されてか一~二校に絞り受験一校は落ちたものの本命の造形大学が受かりほっと致しました。その後四年間八王子の高尾にある大学で基礎からデッサンを学んできたようです。
よく私も妻も母も息子のデッサンのモデルにされたものです。
私も息子に影響されてか写実的な描き方で梨や、山の里の藁葺の民家を描きに誘われて行ったものです。ところが息子の素描力にはとても勝てず自分の絵はマンガだと息子に言ったこがありました。
正彦は大学を卒業すると同じく中学の美術教諭として働き一〇年で退職、以後高等学校の非常勤講師として働いて他の時間に絵を描くといった暮らしを始めて今五六歳にな
ろうとしています。

 


    フランスの旅

長男正彦が絵画を制作する上で一年に二回ほどフランスに行くようになり、当時はユーロ化される以前でしたので航空運賃がとっても安く10万ほどで二週間旅してもお釣りがくるときがありました。勿論英語ができる正彦の後についてゆくのですが、その代わり一泊目のみ予約してあとは行き当たりばったりの旅でした。たくさんのフランスの風景に接してたくさんの作品を描きましたところ変われば品変わる、のごとく、毎日驚きの連続でした。その時は7〇歳代でしたのでまだ今より体力がありました。自転車でフォンテンブローの街を走り回り迷子になりかけましたがやっとのことでホテルまで戻ることができ近所でスケッチをしたり、カフェでパンとコーヒを飲みながら時間を過ごしました。 
翌日は曇りだとパリ出てルーブル美術館

でぶらぶらしてついでに市内見物もして多くのあこがれの美術文化に触れました。
ルーブルの帰りメトロ(地下鉄)は大変混雑して長男とはぐれてしまったことがあります。その時ばかりはあわてましたその場にとどまればよかったのでしょうが、あわててメトロに乗り込んでしまい、リヨン駅の改札を出たところで待つことにしました。
私以上にあわてたのは正彦だと思いますが、幸い四〇分ほどして同じ改札口に来てくれましたので助かりました。
それからホテルに戻って一安心、トイレに行くと内側のノブが盗まれてなくなっておりそれに気が付かず入ったものですから出るに出れなくなってしまい大きな声で「正彦出
れないよ」と叫んだことがあります。
日本人は正彦1人ですからもしいなかったら次にトイレを利用する人を待つしかありません。幸い部屋に正彦がいましたので飛んできてくれましたが、まったくこんなトイレを使ったのは初めてのことです。夜中の九時ごろマルセイユにつきホームに立っていたらミストラルという季節風に押されて倒れそうになったことがあります。日本の台風から比べると、たいしたことのない風ですが、これが太古の昔から吹く風だと本で知っていたものの現実に体験するのは初めてのことです。その後セルフサービスの店でオレンジジュースとサンドイッチを食べ巴里へ向かう列車にのったは、いいが座席には人々でいっぱいでした。車内は真っ暗で人々の眼ばかりがキラキラして不気味でした。
ゆっくり走りだし車掌が来たので息子が
アルルに行くかと言っているのが聞き取れました。車掌はここにスペルを書きなさいと言ったので(ARLES)アルルと書いていました。列車が夜一〇時ごろ到着すると後ろから若い日本人らしい女性がくるではありませんか、さっそく「あなた日本人ですか」と聞くと「そうですが」といってくれまして、とても感動いたしました。まさかこんな夜中に、しかもフランスのアルルで会えるなん
て考えてもいませんから、さっそくホテルバンゴッホの行き先を訪ねることができました。 またアルルでレンタカーを借りて正彦の運転でいろいろまわりました。最初の一日目朝8時に車を借り正彦が慣れるまで街中から交通量の少ない郊外へと向けて走り出したところ、最初は調子よく運転していましたがある広い駐車場を見つけて駐車しました。車の前は木か生い茂っておりました。エンジンを
切りしばらくしてエンジンをかけたらバックギアーになかなか入らないようで困っていました。私が「車を前から押そうか」と言いましたら正彦が「そうした問題じゃないよ」と言っていました。近所の人を連れてきてバックギアの入れ方を教わっていました。
その老紳士に丁重にお礼をしてその場を後にすることができました。
それからというもの車でエクサンプロバンスへいったり。ヒッチハイカーのフランス人青年を乗せてアルルへ向けて走っておりました。車内でフランス人青年から「あなたの国の総理大臣が倒れたよ」と聞きました。フランスでも日本の政治の事に注目しているのだなあと思いました。青年と別れ私たちはかつてファンゴッホが旅したというサントマリードラメールまで行きまた。初めて地中海を見たのですが、海には見
えず大きな湖、かつての捕虜時代のバイカル湖を思い出し何か複雑な思いにさせられました。


125年前ほどオランダ人画家フィンセントファンゴッホも今と同じ海を見ていたのかと思い巡らすと何か感慨深いものが私の胸に迫ってくるのでした。
私の頭にはサントマリドラメールという言葉を聞くとどうしても、かつてゴッホが描いた絵画と結びつかずに海を見れなくなってしまうのです。
ゴッホの絵画はモネなどの光の感じを写しとるといった外向的、写生的絵画と違って自分の心象を重点に置き描いています。ゴッホの絵を私は画集でしか見なかったにも拘わらず知らぬ間にゴッホが私の体に乗り移ってしまっているというか、絵を見たり手紙を愛読するとそんな気持ちになるのです。私はど
ちらかというとゴッホ的な表現主義の絵画から出発いたしましたからわたしの第2の心の故郷でもでもあります。


さていよいよ我々の旅も終盤となりフィンセントが1年間閉じ込められていたサンレミの修道院および精神病院にやってきました。精神病棟は完全に封鎖され厳重にロックされておりましたが唯一郵便受けを発見しました。
それは道路沿いからバイクに乗りながら配達員が差し入れられるように、そして中の人が座った状態で受け取れるよう。(横30センチ高さに4センチ程)に唯一外に開かれた入口のように思えました。今でもゴッホと同じ規模で存在していることを思うとフランスの歴史の厚みを感じさせられます。私は
そんな思いを込めながらここで数枚の作品を作りました。

 

私の水彩画 

水彩画には大きく分けると透明水彩画と不透明水彩画に分けられます。私は長年約六〇年水彩画を描いてきました。主に大作を描く時は、不透明水彩を用い小品の時は透明水彩を、用いて、描いてきました。絵具は『くさかべ』や『ホルべイン』社といった日本製の絵具を愛用しています。紙はワトソン紙すべて日本製です。巴里の画材屋では、老舗のセヌリエが現在でもルーブル美術館の見えるセーヌ川沿いに、創業以来三五〇年の時を刻んで立っていますが、意外と規模が小さく少数の画家や愛好家の需要にこたえているといった感じです。それに比べると日本の世界堂新宿本店などは五階建てのデパートのようですべてが画材売り場です。いつ行っても人が多くてレジでは待たされるといった繁盛ぶり
です。
いかに日本人画家やアマチュア画家デザイナーが多いかわかります。パリの約百倍といった感じです。ですから日本では世界のメーカ品が容易に手に入ります。
逆にパリでは日本のメーカー品は全くと言って手に入りません。ですからパリで岩砕を使って和紙に金箔を貼って日本画を描くということは、日本から持ち込まない限り不可能です。
逆に日本では世界中の絵やデザイン、彫刻、版画、活動するのに必要な画材が容易に手に入るのです。どうしても手に入らないのはモデルさんぐらいです日本で西洋人をモデルに絵を描くことはほとんど不可能な話ですそれはモデル紹介所に外人モデルは登録してません。それと日本でヨーロッパ風の街並みや山や川は描けません。地震大国日本ではヨーロッパ風と言えば若干丸の内側から、見た東京駅くらいといった、ものです話を水彩に戻すことにいたします。水彩の魅力は何と言っても手軽に早く描けるといったことでしょう。においもなく、水で溶いて使うのですから簡単です。
間違えて絵具を塗ってしまいましても、重ね塗りというよりスポンジで絵具を吸い取り描きなおすこともコツを覚えてしまえば簡単です。
これほど簡単で大作から、ミニチュアまで描けるのははっきり言って水彩画のみであろうと思います。ただし売り買いすることに関しては、水彩は画商にも市場にも無縁です。要するに売れないことに関しては王様です
かれこれ六〇年間描いてきて、私が下手なのかもしれませんが、今まで画商にかかわることは皆無、小品は別として大作が売れたためしが、ありません。材料が主な原因だと思います。水彩画家というイメージがそれに拍車をかけているといったかんじがあります。
最近正彦が水彩画のみの展覧会を小さなギャラリーで開催して、ある程度の売り上げを作っていることから見ると不思議で仕方がありません。正彦は水彩をやろうと油絵をやろうと彼は世の中から油絵画家として理解されているのかな、水彩画家と油絵画家とどう違うのかと思われますが、違うのです。画壇での評価といったこところでしょうか、水彩画家をもっと認める世の中になってほしいと願いますが、日本では無理のようです。あと五〇年位かかるかなと思ったり致します。遠い話です。私はこれといった画家から影響を受けて画家になったわけではありません。気が付いてみたら水彩連盟展の無鑑査出品となっておりまし
た。きっと少し器用だったのか、いまだに下手の横好きと申しましょうか、自分では納得のいく作品ばかりと思っていますが、絵がたまる一方でとうとう正彦の家まで山済み状態です。
幸いにも彼も画家ですのでそれらの作品を大切に保管してくれています。とにかく水彩画は技術で描くものではありません、どれほど心が入っているかが最も大切です。つまり心で描くのです。また水彩はその心が、とても表しやすい道具であることに間違いありせん。

 

私と水彩連盟展

毎年日本中から出品がある日本最大級の水彩画専門の団体展で会場は主として六本木にできた国立新美術館で春に行われます。私を入れて会員百人程の作品が並びます。作品の大きさも様々ですが、大体畳二畳以上の作品が多く。それでも小さい方です。畳六畳もある壁画のような作品を出してくる方もいます。そこに出品して以来五五年の歳月が、たちました。審査員も五〇年くらいやっていますが、未だにこれといった作品に出会えないのも残念です。この団体から画商がつくようなプロ作家は皆無であります。ですから皆何かしら正業をもち余暇に描いた作品を出品してきます。水彩連盟から二名安井賞作家が輩出しましたが彼らもその後日動画廊とかで個展開催したことは知る限り、聞いたことはありませんでした。
でも私にとっては水彩連盟は唯一の作品発表の場であり研鑽のためのよき場でもありました。
水彩連盟でも私が八〇歳を過ぎたころか
ら規約により会費免除となっています。でも最近は健康上のこともあり大作を描かなくなりましたので、出品を取りやめようとも考えています。畳半分でも無鑑査ですので展示はしてくれますが、なにか急に大家のような振る舞いで仲間から顰蹙を買うといけませんのでこの機会に方向ずけようと思います。
これからは地元平塚美術協会だけにしたいと思っています。あと正彦が代表者となっているギャラリーこまの個展のみにしようと思います。今年も九〇歳にして開催する予定です。
最後に私の好きな有名な平櫛田中という木彫家の言葉と好きな俳句を書いておきます。
絵描き七〇~八〇歳ははなたれ
小僧九〇にして一人前男仕事は
百から百から    平櫛田中
盗人や、わすれ置きたる窓の月 
良寛 

                    
●画歴 小泉喜代次

1922大正十一年、平塚市に生まれ
1943年 北支に1出征
1959年 勤労者美術展で労働大臣賞
1961年 水彩連盟展に出品
1962年 水彩連盟展ミューズ63 |
1964年 水彩連盟会員となる      
1074年 毎日新聞社月刊エコノミス  トの誌の表紙となる
1983年 オランダ美術賞展入選
1986年 日米現代水彩画展出品


1988年 ソウルオリンピック国際水
      彩展画展出品
1983年 日中韓3国親善美術展招待  


日本美術家連盟会員
水彩連盟会員
平塚市夕陽ヶ丘50の12在住

 

あとがき

これらの文章は私の妻貞子をまじえながら校正し作成いたしました。多少読みずらいことや誤字などがありますが、ご了承ください。

 

私の父親像 小泉正彦


物心つく頃私は父親という大きな体をした、まるで偉人伝に出てくような人、溌剌とした尊敬すべき塔のような大人に見えました。


私は子供心に自分もこのような大人になれるのだろうか父を乗り越えていけるのだろうか、心配になり気弱になったりしました。それほど私の少年期は常に不安と希望が表裏表裏一体でした。そうした思いが私をあるとき猛烈に学習に駆り立て、学力も体力もない少年の心を支え、ある時は学力を大幅に伸ばし学校の先生方に褒められたこともありました。
友人にはこのころから僕の父親は画家なんだと、言いふらし始めました。そのことが友人や女子生徒の魅力として映ったのだろうと思います。私自身も画家の子供だということを誇らしげに思っていたものです。
高等学校は一年生の時、父親が審査員の
一人として参加している平塚美術協会展に出品、佳作賞を頂きました。そうして次第に現代絵画の虜になっていきました。


高校ではほとんど学習活動に興味が薄れひたすら絵画の事ばかり考える。異常な高校生になっていました。周りの同級生ともあまり交流するこすることなく孤独な生活に甘んじていました。学習活動も一通りの課題を提出して落第しなければいいや程度のきもちでいました。その頃から美術書を読み漁るようになりました。そうしたことが高校での国語能力向上の力になっていったこともあり、とりわけ勉強せずとも中間ぐらいに、いることができました。
二年生の後半から美大受験勉強に目標を据えて放課後はひたすら石膏デッサンに明け暮れるようになりました。
そうした青年に成長できたのは父親の影響なくしてはあり得ません。ただ私が美術室で描いたものは一切父親に見せることがなくなりました。

遅れた反抗期にさしかかってきたのだと
思います。父親を何とか乗り越えたいと思うようになりそれには、1流の美術家に講うしかない、その弟子入りとは、熱愛する写実の巨匠の教える大学に入るしか道がないと思いました。3年次は美大1校、目指して猛烈に受験勉強を開始、現役であこがれの東京造形大学に入学を果たしました。
このころ芸大へ行きたい思いもありましたが考えることもあり受験はしませんでした。 そして大学の4年間親の援助のもと、存分にデッサンや彫刻のことを佐藤忠良師から学び、芸術上の父親が忠良先生と思うようになりました忠良先生も私の彫刻が完成するまで私の学習に手助けをしてくれました。そして大学を卒業と同時に中学の教諭となり10年務め退職、画家として今度は再スタートして23年たち今日に至っております。こうした私にとって父とはどんな人生を送り今日に至っているのか自分を知るうえで絶対欠かすことのできない人物であります。私は自分とは何者であるのか知るうえで1番研究すべき1番身近でかけがえのない存在として、いま私は考えようとしています。
私は十八の頃キリスト帰依し洗礼を受けました。宗教では熱心な仏教徒でもある父親とそのまま対峙していますが、人としては最高に善き、隣人何でも相談相手に乗ってくれる人として頼りにしているのです。これからも健康で、私の芸術の師、最近九八歳で逝去された佐藤忠良先生ぐらいまで、いれ以上長生きをしてもらいたい人物なのです。

 

平成二十四五月    深夜