フィレンチェ10日間

フィレンチェ10日間
私にとってフィレンチェの旅は2回目となります。30年前美術研修の旅参加したが1回目今回は一人で行く旅となりました。ロシアノシュレマチベ空港経由してローマまでの列車も終電となり、ウルムチ空港の出口で一人ポツンとしていると、一人のイタリヤ人がローマまで15ユーロと書いた紙が渡され、何のことかと思っていたら駅の方から5人集めてきてローマまでワゴンカーで行くことになりました。


私はローマテルミニ駅と申しましたので、その近くまで行っておろしてくれました。そこからアレキサンダーダウンタウンホテルを地図を手に探し三人の人に聞いたのでしたが、すべて間違った方角を示していました。ウロウロすること30分途方に暮れていると一人の男性が地下から出てきてくれたので地図を見せると地番から向こうの白い看板の所だと教えてくれました。


誠に助かりました。この方にお礼を言いやっとのことでホテルのフロントの所までたどり着きました。痩せた白人男性がいろいろと私に説明していますが意味不明でした、分かったふりをしましたので、説明は終わり料金を現金で支払いました。


鍵を持ち部屋に入ると四人部屋の二階の部分のベットでしたそこで四時間ほど寝たでしょうか、まだ暗い中起きて六時頃テルミニ駅に向かいました。上着のポケットに入れていたガイドブックはなくなっていました。たぶん飛行機の中に忘れてきたのだとおもいます。フィレンチェ行きの列車の切符を購入しなければなりません切符自販機操作にあたふたしていたら、テルミニのおじさんというのがやってきてフィレンチェまでの切符の購入の仕方を教えてくれました。


そのおじさんが手を出したので2ユーロあげました。フィレンチェ行きの列車に乗りやっと一息ついて到着までと思っていましたが、途中女性の車掌さんに、八ユーロ追加請求されました。五十ユーロだったのです。ようやくフィレンチェに到着いたしました。フィレンチェ サンタマリア ノベラ さっそくタクシーでホテルに向かいました。


これから10日間宿泊するプラスフローレンスに荷物を預かってもらいました。さっそくフロントでもらった地図を手にしながらアカデミア美術館に向かいました。戻ってこれるように周囲を確認しながらやっとのことで美術館のエントランス入口にたどり着きました。不審物の持ち込みはないか厳重なチェックを受けレントゲン検査もし入館が許されました。

やっとチケット売り場に並び6ユーロ支払って中に入っていくとミケランジェロではない彫刻作品の部屋をとうり抜け左側のかどを回ると見えてきました。

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遠くの方に白く輝くダビデ像です2メートルほどの台座に4メートルはあろうか巨大なダビデ像は今にも動きさしそうな迫力で見るものに迫ってきます。ダビデ像は失敗作だと言われて半世紀その言葉を打ち消すように、白く遠くに輝くさまは一つの彫刻の頂点として威厳と風格に満ちていました。私は初めてミケランジェロの人格の一つの表れである作品と向かい合いました。また椅子に座ってしばらくデッサンもいたしました。どこから見ても本物のダビデ像はバランスが取れているのです。


きっとにらんでるのはゴリアテなのではなくフィレンチェ共和制に立ちはだかる敵に対してだったと思いました。このダビデ像が収められた美術館は19世紀の事それまではベキョ広場に野ざらしの状態で立っていました。野ざらしだと風雨による損傷また破壊活動からも無防備となります。作品守る上からでも専用の美術館を作り自然光が天井から優しく降り注ぎ彫刻をより立体的に見えるようにしたのです。


そして周囲にミケランジェロの未完成作品左右に二体ずつは背地左右に4本ずつ合計8ッポンの円柱を立て遠景から見ると神殿の中央に配置されているように見えます。


このようになったのは1887年の頃だそうです。またこうした扱いを受けている彫刻はほかにはありません。かつてフィレンチェのあるところに他の彫刻家が彫りかけて打ち捨てられていた巨石が若いミケランジェロの手にかかり見事に彫刻された姿は当時のフィレンチェの人々にとても大きな衝撃を与えたと想像いたします。


すでにミケランジェロの名はヨーロッパ中にあのピエタ像で響き渡っていましたのでこの作品の出現は当時の人々に新しい驚きをもたらしたのだと思います。エネルギーと自信に満ち溢れた姿はあらゆる自由の敵に対して慄然と立つ姿はもはや古代ギリシャ彫刻には見られない激しい感情の動きを表していると思いました
このような自主独立の姿はルネッサンス固有の様式でありルネッサンス芸術の一つの頂点であると思います。後ずさりしては見て遠くの方から次第に近きながら見てまたしばらく目をそらし再び見て今度はガラスのさく近く真下から見上げてまた振り帰りぐるぐると一周してまたみる。私はそのようにありとあらゆる角度から彫刻を堪能してようやく美術館を後にいたしました。


にそれからポンテベキョへ向かいました。フィレンチェで最も古くもっともフィレンチェの名物橋は今も中世のたたずまいのまま、橋と住居が一体となった世界でも最も有名な橋です。
橋の上は宝石を売る店でしめられています。橋を渡りきったところに水彩画を制作販売している人を見つけました。彼女はイタリヤのいろいろな名所をスケッチしてはカルトンに貼り購入する人を待っているのです。こうした行為にも取り仕切る人がいて予めイーゼルや絵具箱を置く権利を獲得するようです。そのための作品審査や基準に合わない人はここではこうした行為は許されないと聞いたことがあります。


ですから誰でもできるわけではないようです。ここで制作してる人はれっきとしたプロというわけです。私はとうとう疲れ果てたのでホテルに戻ることにいたしました。イタリアにはタクシースタンドというものがあります。そこで待っているタクシ―に載れるというわけです。丁度女性ドライが―車を止めてくれたので、ボンジョルノと言って後ろの座席に座りました。行き先を尋ねられますので地図を広げて指させば行ってくれます。迷路のようなフィレンチェの街を縦横に走りながら駅のロータリー一周しながらカテリーナな通りのプラスフローレンスに着いたのは3時半を回っていました。
ベネチアの旅フィレンチェ駅からまずボローニャに向かいますそこからベネチア行きの列車に乗り換えベネチアまでベネチアは陸から離れた小島のようですから海が見えたらベネチアも間もないと思いました。

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駅の階段を下りるとベネチアがひろがっています。そこから歩いてアカデミア美術館まで迷路のような道をあっちこっち行き大きな橋に出ました。そこから歩いて約20分歩くとまた橋に出てその橋の向こうにアカデミア美術館がありました。ここにはジョルジョウネの雷そして老婆を描いたものがあります。これらの作品は特殊なガラスの向こうに陳列されていました。
さすがジョンです。ダビンチにも接触したらしく油彩画の立体感がより感じられ見ごたえがありました。

帰りは来た道をたどりようやく駅にたどり着きました。その日はあいにく雨でしたので、晴れの日にもう一度来ようと思いました。さあもう一度同じ列車でフィレンチェにもどりました。やく片道5時間あまり乗ったでしょうか、ともかく宿に戻りました。そして明日を待つことにいたしました。

夜7時に寝てしまい夜中の2時に起きてフロントに向かいインターネットを見るのですが、それがなんと私のサイトにたどりつき、そこからメールすることもできたのです。ただしローマ字で世界も急速に小さくなっていきます。

フィレンチェから秦野在住の青年画家のN君にもメールいたしました。ついでに日本映画みぶ義人伝を見ました。中井貴一演じる  またふうてんの虎二朗が面白かったです。

さて夜は長いですが駅が5時30分に開きます。それを待って中に入ると朝食に甘い砂糖でくるまれたパンとカプチーノをうけとり4.5ユーロです。それを獲得したら広く暖かいソファーに陣取り食べながら時間を待ちます。列車の時刻を時間が来たら今日乗る列車を探しうまく乗り込めたら時刻通りに列車は走り出します。今日は晴れか否かはボローニャの駅付近でようやくわかります。

勿論乗り換え列車は一路ベネチアへようやく2回目のベネチアです今度は太陽光の日差しをうけて光輝く世界変貌いたしました。今日はフラーリ聖堂へ行って何としてもマリア被昇天を見たいと思いました。またしても迷路をあちこち行きやっとのことでたどりつきました。

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チツアーノ作マリア被昇天絵の前に立つと息をのむ迫力です。赤いローブを着て天に手を掲げ昇天行くさまを人々が驚き見上げているのです圧倒的に迫力で見るものを圧倒致します。発表当時依頼主の人々が受け取り拒否をしたのです。理由は赤いローブにありました。赤いのは娼婦のしるしだったのです。それでためらったのです。

丁度バチカンから使者が来てこれを受け取らないのなら我々が買い取ると申し出たのです。その言葉でこの作品を正式に受け取ることにしたのです。この絵にはミケランジェロの壮大さとラッファエロノ調和があるとようやく気が付いたのです。当時としては世界最大の油絵でした。この作品も写真には取れず自分の記憶にだけとどめました。

もうすでに印象派や現代絵画も乗り越えてしまっていると思いました。さて帰ることにいたしました。さてこれで名実ともに評価されたチツアーノ バレンチノは国際的に評価され世界中から絵の注文を勝ち取ります。もうこれでジョルジョウネのコピーだとはだれも言えなくなりました。そうこうしているうちにまたしても迷子になりました。このベネチアは全く15世紀のまんまなのです。ゴンドラの水上タクシーが運河をゆきます
ようやく駅に着きフィレンチェに帰ることにいたしました。さてフィレンチェに到着明日はトスカーナの大地、チェルタッドを目指します。フィレンチェはいつものようにサンタマリアノベラと言います。世界半分見てきましたが日本ほど盛んな都市はありません。いまでもきっと大戦の後空前の好景気に沸きアメリカナイズされた日本国民が戦争の恐怖におびえることなく表現の自由を保障され爆発的に進展したのはちょうど最盛期ルネッサンスと似た色合いを感じさせます。

誰かが必要なのです。美にマネーをささげる誰かが必要です。さて私の乗った列車は時刻どうりにフィレンチェに入りました。

まったく人類史を振り返ると戦争の連続です。第二次世界大戦人が人を呪い英知の限りを尽くして殺しあったのです。私の父も従軍して中国の北支へ回されました。恐ろしいことです戦争だけはやってはいけません まったく野蛮で愚かな行為です。サタンはしばらく閉じ込めれれていますので大丈夫です。さてロマンの城へまたしても向かいます。こうして私のフィレンチェはあっとい間に時間がたち最終日を迎えました。ミケランジェロのアカデニアに2回メジチ礼拝堂に1回そして最後にウフィチチィ美術館にゆきボッチテリの春を見てフィレンチェを後にいたしました。次はローマですローマまで電車で5時間ほどして到着いたします


憧れのローマです、この近代的駅はムッソリーニがたてたそうで軽く70年はたちいまでもモダンなのです。列車が止まっておりましたが周りの様子がローマらしくないのです。ローマ地下鉄の駅に到着したようです。そこから地下鉄でローマまで乗ることにいたしました。地下鉄の切符はタバコ屋さんで手に入ります。駅員はいませんそして乗り込みローマまでローマに入り荷物を何とかしなければなりません。

そこでデラックスルームへ直行ところが看板一つありません、どこだと探すと集合住宅の一室にそれがあるようでした。縦一センチ横五センチほどの隙間にデラックスルームと英語で書かれてありました。その脇にインターホンが付いていました。押しても何の返事が返ってきませんきっとフロントが3時半に開くらしいのです。それまで時間をつぶすことにいたしました。マクドナルドに入りましたコヒ―トハンバガーを頼んでおなかがすいてたのかとってもおいしかったのです。味は日本と同じでした。さて時刻は3時30分フロントが空いている時刻です。

最初に確認たどり着いた例のインターホンを押しました。するとイタリア語でチャオ私は日本から来た宿泊予定のものです。とい言ったらざっと200年はたっている木の扉があく音がしました。まかに入ると暗闇がつずいており扉は全てしまっていました。

またあらためてホンを押してどこをどういうふうにいったらいいのか尋ねました。すると左のリフトで5階に上がってください。とのことリフトはありましたがなんせ年代物で戦前のものです操作が解りません。

階段で6階までやっと明るい照明が見えてきました。フロント上はイタリア人女性30歳前後でした。

お決まりの英語で説明が終わると前払い現金を3日ぶん請求され支払が終わると三本の鍵と地図がわたされここへ行くように指示されました。

その時私の部屋がとほーもなく遠いところにあることが解りました。私の部屋はここにないことが解りました。さて今度は地図を片手にローマの市街をあっちこっちに歩いていました雨が私の体に容赦なく打ち付けます。

私はとうとう迷子かと思っていたら擦ってん体を強くローマの大理石の上に打ちつけてしまいました。痛みが走りましたが自力で起き上がりようやく歩けるようになりました。さて気を取り直して自分の位置を確認するとどうやら反対方向を歩いていたことに気が付きました。ホテル前に戻りそこを通過してオッタビアーノの地下鉄駅を通過そして私の部屋の門の前をようやくたどり着きました

。雨は大降り泊りばたばた私の体に直撃いたします。またしてもこの扉がしばらくするとあかない中から数人の男女が出てきたのでその隙に門の中に入るとまたしてもどこがデラックスルームだかわからない目印一つありませんでした。これでは第二番目の鍵を使ってどこの扉だかわかりません。

またしても例のフロントに戻り中の行き方の説明を求めました。まず落ち着いてこのイタリア女性と仕切り直しです。ずぶ濡れの私を見て彼女は私にあたたかい紅茶を出してくれました。さてます地図を描きその0階一部分をどう行くか教えを乞いました。

最初日本語が出てしまいました。今度彼女はわからないと言っていました。さて英語に切り替え正確に何階でどこの方を行けばよいのか聞きだしました。すると中に入り中にはにまず出てその円形の広場の左の小道を行けば二つの古き木戸があります。その右の木戸の鍵穴を見つけ差し込めば木戸があくことを聞き出しました。今度は荷物一切を預け手ぶらでその場所へむかいました。ようやくたどり着き言われたとうりにしたら104号室の私の部屋が見つかれました。フロントに戻るとどうだった言うからわかったと言いました。そしたらグレイトとか言っていました。

荷物を受け取り今度はリフトで降りましたました。そしてようやく部屋で安息できました。まず体を暖めるべく裸になり熱いシャワーを浴びそのままベッドに入り込みました。

1時間でしょうか休んだらシーツに私の血痕が付いていました。傷を負い血が出てたのです。それから再び少々の水を飲み暫くして外に出ることにいたしました。

バチカンは隣の遠方にそびえています城壁が見えるだけでした。さあ明日はここからバチカンへ行き中のシステナ礼拝堂のミケランジェロの天井壁画を見に行くぞと思いました。一晩寝て睡眠をとり痛い左胸をかばいながらようやく朝を迎。
へました。

さあ今日はローマの朝7時30分ウルマニというレストランへ行きチケットを渡すと3回と言って朝食甘い菓子パンにカプチーノを頼みました。これで朝食付きのホテルになったわけです。食事を終るとまっすぐバチカンへ直行ようやく入口ですひどい人の混みようでした途中ベルベデーレのトルソが置かれていました。

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らせんの通路を上がるとバチカンのシステナ礼拝堂にたどり着きます。相変わらず圧倒的迫力で見るものに迫ってきます。私は誤解していました。洗浄は正しかったのです。あの壁画はあの距離あの暗さで迫力あるようにミケランジェロは描いていたのです。ですから照明をあて撮影した者は壁画のイマージとはまるで異なるように見えるのです。丁度パステル画のようにあざやか過ぎてしまうのです。あの暗がりを計算していたのです。さて私はデッサンを終えるとバチカンのドームの頂点を目指して登り始めました。ようやく狭い通路くぐり抜けタワーの見晴らし所にたどり着いたら大勢の外国人の中に自分一人東洋人がいました。

一周し降りることにしました。土産物店で日本人の修道女が店にたっていました。目があいましたがこちらが疲れていましたので話はせず水を一杯購入して飲みました。まことにおいしかったです。

それからリフトで下に降りると正面にミケランジェロピエタが目に入ってきました。これもミケランジェロ23~4歳の作品で唯一署名がある物です。

 

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これも驚きでしたまるで動き出しそうな感じで聖母の顔の美しさに魅了されます。ただし防弾ガラス向こう6メートルです。ちかずけないようになっていました。次はミュゼボルゲーゼです。

私はガイドブックを失いました。美術館の正しい名称も解りませんでした。

そこで地下鉄にとりあえず乗ることにいたしました。すると乗客の中にローマカタカナで書いてあるガイドブックを見ている若い女性発見しました。すかさず近寄りそのガイドブックを見でてくれるようにお願いしたら快く見せていただきました。名古屋の人のようですこれからフィレンチェへ行くそうです。お礼を言い彼女スペイン広場に行くと言って降りて行かれました。これで正しい名称が解りましたので地上に上がりタクシーでミュゼボルゲーゼまでたとりつきました。

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宮殿を美術館にしたようなところでした。ここにはラファエロとベルニーニ―の代表作アポロンとダフネがありました大理石で彫られた美しい彫刻でしたが技巧を凝らしているところが何とも薄っぺらく見えてしまいました。でのモーレツにうまいのです驚きです。

 

ミケランジェロのメジチ像の制作秘話

ミケランジェロがこれらの作品を作るに至った秘話をお話しいたいと思います。

ミケランジェロという人は初めから偉大な画家や権力者の息子ではなくとても貧しい家柄の出身だったようです。

ある雪の日雪で彫刻を彫っているとそこを通りかかったメジチ家の関係者がその出来栄えに驚いてメジチ家で彫刻の修行をするように手配してくれたのです。

彼はそこで著しく才能を開花させていきます。

そこで早くも17歳の時見事なレリーフを大理石に彫ります。メジチ家は彼にとって大パトロンだったわけです。

当時フィレンチェはルネッサンス真っ盛りで民主主義的な社会で花の都と呼ばれていました。

メジチ家も数多くの芸術家を擁護し孤児院などの慈善事業にまで多額のお金を寄付致しました。

ところが時代は変わり花のルネッサンスは終了しフランスなどの強国に脅かされるようになりました。

メジチ家もフランスと同様に今度はフィレンチェの独裁者として返り咲こうと軍を向けます。

ミケランジェロはこの時フィレンチェにいましたので、根っからの共和主義者である本人にとってこれは許しがたいことだったのです。

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フィレンチェ一人旅(メジチ家霊廟)

これでやっとダビデ像を見ることができました。

次はメジチ家霊廟です。簡単に言うとメジチ家のお墓です。ここにはミケランジェロのジュリア―メジチ像やその他の傑作がずらりとあるのです。ともかく入ってみることに致します。

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どうですかこの迫力、これがメジチ像です。作られた当時この像を見た人々がちっともジュリアーノメジチに似てないじゃないかと抗議したそうです。するとミケランジェロは500年たったら誰がそんなこと問題にしますかと答えたそうです。

そしてこの像の反対側にロレンツオメジチの像を彫

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ります。これがそうです。比較的石としては柔らかいとわ言え石ですので固いです。それをこのように本物の人体がうごめいているように彫り刻むのですから天才の成せる業と言えるでしょう

イタリア フィレンチェ一人旅

4時間程寝たであろうか目が覚めたのは5時を回っていました。早速ホテルをチェックアウトして駅に向かいました。かつての独裁者だったムッソリーニの設計でとてもモダンな建物でした。さあこれからチケットを購入するのだが販売機をどう操作したらいいのか分かりません。まごまごしていると2ユーロおじさんが現れフィレンチェ行きの切符を購入する操作方法を教えてくれました。切符をゲットした後2ユーロ要求されたのでこれが有名なおじさんかと思いました。フィレンチェ行きの列車に乗り込みました。列車は走り出しローマを後に致しました。のんびり車窓の景色を眺めていると女性の車掌が切符を検閲に来ました。この切符ではこの列車には乗れませんと言っているようです。私はどうしたらいいのかしらととっさに英語で言ってみました。そしたら8ユーロ

払えばいいのです。と言っているようでしたので支払いました。2時間ほどして列車はフィレンチェサンタマリアノベラ駅に到着。さあこれからフィレンチェの旅が始まると思うと足どりが軽くなりました。駅を出てタクシーでホテルに向かいました。ホテルはユースでした。フロントに荷物を預けて地図をもらってアカデミア美術館へ向かいました。同じような建物ばかりで帰ってこれなくなるといけないので1回か2回ホテルに戻りホテル形状を覚え出発致しました。フィレンチェではホテルまで看板が出てなくしかも中世の建物を中だけ改装して使っていることが多いのです。ですから外から見たらどこがホテルでどこが美術館だかわからないのです。しかもフィレンチェは道が蜘蛛の巣状に分かれていますので、よほど慣れた地元の人以外は必ず迷子になります。これも中世にできた敵の進軍を遅らせるための要塞化した都市なのでしょう。それを現代まで完璧に保存しているのですから外国人である私にはたまったものではありません。やっとのことでアカデミア美術館の入り口を見つけました。入り口は狭く普通のお店に入るようです。入場料を払い持ち物検査を受けさあこれから入場です。この先にミケランジェロの若き日の代表作ダビデ像があるからです。暗い通路を通り左側に見えてきました真っ白で5メートルはあろうか巨大なダビデ像が見えてきました。30メートルほど先に立っていました。ちかずくにつれその巨大さといい迫力といい圧倒されてしまいます。360度どこから見ても完璧なのです。これが天才のなせる業かと思い知らされました。