ロダンの写真

青銅時代の石膏原型






coro5577.hatenablog.com

 


ロダン再考
今はロダンの作品を見るのは日本人なら容易です。国立西洋美術館など多くの美術館が所蔵しています。私は高校生の西洋美術館の許可を貰って館内のロダン作品の模写を致しました。ただ眺めるのと違って描くとなると色々と細部の作り迄解ってきます
日本人が明治時代にロダンに熱狂した理由が少し解りかけてきました。その一人の荻原守衛の作品を収蔵する長野の碌山美術館に行ってきました。夜行で行きましたので朝着きました。会館迄時間があるので畑のきれいなコンクリの上で寝ることに致しました。すっかり熟睡してしまって気が付いたらここはどこだかすっかり忘れていました。あそうか碌山美術館に行くのにここで寝てことに気が付きました。
それから美術館見学しました。文覚しょうにんの像 女 などが印象に残りました。これらの作品がロダンの影響で作られたのは明白です。迫りくる肉体という塊のダイナミズムこれまでの日本彫刻ににない迫力です。
高村光太郎ロダンの言葉を翻譯して中原悌二朗が老人の姿をロダン風に作りました。当時のロダン熱はとても熱狂的だったことがうかがわれます。当時彼らがどうしてそんなにも熱狂したのか、まだ写真でしか見ることができなかった当時の若者が、あれほどまでロダンの彫刻の理念を習得できたのは荻原守衛高村光太郎、藤川雄造によるのだと思いますが、その後松方コレクションとしてロダンの本物が日本に居ながら見れるようになるりました。
今ではロダンの作品は簡単に見ることができます。私は美大では、彫刻を専攻致しましたので、ロダンというよりはマイヨールの面の作りのうまさを参考にするように言われ、教授の言われるとうりマイヨール風のおおまかな面による人体の構造体の致しました。いまとなっては素晴らしい教育を受けたと思っています。
しかし私にとってはロダンがどうしても忘れられない存在なのです。20年ほど前パリに出て、パリ市のロダン美術館は勿論、パリ郊外のムードンにあるロダンのアトリエ現在は美術館になっていますがここではロダン作品の石膏原型を見ることができるのです。ロダンの手触りまで感じさせるほどブロンズでは味わえない質感の魅力がありました。特に青銅時代の石膏原型は圧巻です。これがサロンに出品されて落選の憂き目にあってのですから、当時の人々がこの石膏元形に驚愕し狼狽ししまいにひがむようになり、この新しい彫刻の出現を抹殺しようと試み、このリアリズムは人体から直接型取りしたものと決めつけ決着をつけ落選、にして封じ込めようと致しました。
新しいものを受け入れれば自分たちの彫刻が古臭くなり注文が減り彫刻家としての立場が危うくなるのを恐れたのだろうと思われます。
しかし若いボザール出身の彫刻家が機敏に反応して形成は次第に逆転していきます。もはやロダンを否定できない状況まで時のサロンの審査員はなっていた人々が。ロダン作品を招待出品としてロダンはそれに加え洗礼者ヨハネを作り出品いたします。それを契機にロダンの評価は次第に高まり、国から装飾美術館の門のデザイン地獄の門の依頼を受けます。もはやロダンはフランス彫刻家第1人者にまでなっていました。ロダンの彫刻には生命を感じます。そして作品1点1点にドラマがあるのです。凱旋門の彫刻リュード作のマルセイエーズを除く3点の作品を見て頂ければそのことが良く解ります。3っ点とも大人しく記念写真でも撮るように人々を配置してたいくつ極まりません、それらには命のエネルギーもなければドラマもありません
ロダンは何も新しいことをしたわけではありません、ミケランジェロの作品の迫力ドナテロの生命感ブロンズ彫刻の魅力的美しさ、これらの作品を現地で見てすっかり生彩を失った彫刻界のリバイバリストだったのだと思います。
そしてロダンルネサンス的彫刻をさらに激しく肉体を岩のような立体に作りあるものはとても魅惑的に美しい女性像を作りました。こうした彫刻の有り様がのちのマイヨールやブールデルに受け継がれ現代彫刻へと発展することになります。そうした意味でロダンは西洋彫刻のみならず世界の彫刻変えてしまったと言えます。
妻と二人でルーブル美術館の庭を散歩していたら沢山置いてあるマイヨールの作品の数々を見て歩きロダンの作品を見たらこれは人形だと言っていました。
ロダンは命の尊さ儚さ美しさそして人間ドラマを彫刻で表現した最初で最後の人だったのではないでしょうか、最後の地獄の門は人間の苦しみをあれほど激しく表現した作品はありません。今でもロダンを乗り越える作品はできていません、これは人類が存在する限り追求していくべきテーマであると思います。現在の彫刻界はマネキン人形化しています。命がないのです。展覧会見てもかつての古典主義的作品が多く目立つようになりました。ロダンのしたことを再考すべきではないかと思います


ロダン再考
今はロダンの作品を見るのは日本人なら容易です。国立西洋美術館など多くの美術館が所蔵しています。私は高校生の西洋美術館の許可を貰って館内のロダン作品の模写を致しました。ただ眺めるのと違って描くとなると色々と細部の作り迄解ってきます
日本人が明治時代にロダンに熱狂した理由が少し解りかけてきました。その一人の荻原守衛の作品を収蔵する長野の碌山美術館に行ってきました。夜行で行きましたので朝着きました。会館迄時間があるので畑のきれいなコンクリの上で寝ることに致しました。すっかり熟睡してしまって気が付いたらここはどこだかすっかり忘れていました。あそうか碌山美術館に行くのにここで寝てことに気が付きました。
それから美術館見学しました。文覚しょうにんの像 女 などが印象に残りました。これらの作品がロダンの影響で作られたのは明白です。迫りくる肉体という塊のダイナミズムこれまでの日本彫刻ににない迫力です。
高村光太郎ロダンの言葉を翻譯して中原悌二朗が老人の姿をロダン風に作りました。当時のロダン熱はとても熱狂的だったことがうかがわれます。当時彼らがどうしてそんなにも熱狂したのか、まだ写真でしか見ることができなかった当時の若者が、あれほどまでロダンの彫刻の理念を習得できたのは荻原守衛高村光太郎、藤川雄造によるのだと思いますが、その後松方コレクションとしてロダンの本物が日本に居ながら見れるようになるりました。
今ではロダンの作品は簡単に見ることができます。私は美大では、彫刻を専攻致しましたので、ロダンというよりはマイヨールの面の作りのうまさを参考にするように言われ、教授の言われるとうりマイヨール風のおおまかな面による人体の構造体の致しました。いまとなっては素晴らしい教育を受けたと思っています。
しかし私にとってはロダンがどうしても忘れられない存在なのです。20年ほど前パリに出て、パリ市のロダン美術館は勿論、パリ郊外のムードンにあるロダンのアトリエ現在は美術館になっていますがここではロダン作品の石膏原型を見ることができるのです。ロダンの手触りまで感じさせるほどブロンズでは味わえない質感の魅力がありました。特に青銅時代の石膏原型は圧巻です。これがサロンに出品されて落選の憂き目にあってのですから、当時の人々がこの石膏元形に驚愕し狼狽ししまいにひがむようになり、この新しい彫刻の出現を抹殺しようと試み、このリアリズムは人体から直接型取りしたものと決めつけ決着をつけ落選、にして封じ込めようと致しました。
新しいものを受け入れれば自分たちの彫刻が古臭くなり注文が減り彫刻家としての立場が危うくなるのを恐れたのだろうと思われます。
しかし若いボザール出身の彫刻家が機敏に反応して形成は次第に逆転していきます。もはやロダンを否定できない状況まで時のサロンの審査員はなっていた人々が。ロダン作品を招待出品としてロダンはそれに加え洗礼者ヨハネを作り出品いたします。それを契機にロダンの評価は次第に高まり、国から装飾美術館の門のデザイン地獄の門の依頼を受けます。もはやロダンはフランス彫刻家第1人者にまでなっていました。ロダンの彫刻には生命を感じます。そして作品1点1点にドラマがあるのです。凱旋門の彫刻リュード作のマルセイエーズを除く3点の作品を見て頂ければそのことが良く解ります。3っ点とも大人しく記念写真でも撮るように人々を配置してたいくつ極まりません、それらには命のエネルギーもなければドラマもありません
ロダンは何も新しいことをしたわけではありません、ミケランジェロの作品の迫力ドナテロの生命感ブロンズ彫刻の魅力的美しさ、これらの作品を現地で見てすっかり生彩を失った彫刻界のリバイバリストだったのだと思います。
そしてロダンルネサンス的彫刻をさらに激しく肉体を岩のような立体に作りあるものはとても魅惑的に美しい女性像を作りました。こうした彫刻の有り様がのちのマイヨールやブールデルに受け継がれ現代彫刻へと発展することになります。そうした意味でロダンは西洋彫刻のみならず世界の彫刻変えてしまったと言えます。
妻と二人でルーブル美術館の庭を散歩していたら沢山置いてあるマイヨールの作品の数々を見て歩きロダンの作品を見たらこれは人形だと言っていました。
ロダンは命の尊さ儚さ美しさそして人間ドラマを彫刻で表現した最初で最後の人だったのではないでしょうか、最後の地獄の門は人間の苦しみをあれほど激しく表現した作品はありません。今でもロダンを乗り越える作品はできていません、これは人類が存在する限り追求していくべきテーマであると思います。現在の彫刻界はマネキン人形化しています。命がないのです。展覧会見てもかつての古典主義的作品が多く目立つようになりました。ロダンのしたことを再考すべきではないかと思います

海外でのドライブ
その①                                小泉正彦
【この車は、デーゼルよ】と、言われてキーを受け取り初めてレンタカーにのった。
それも言葉の解からない海外で、いきなりブルンブルンガガガとエンジン音のする赤い乗用車、父親と二人の初めてレンタカーに乗った。はじめての海外でのドライブ、   

いきなり交通量の多い街中から、郊外へと車を進めた。日本と違い右側通行だが、運転するうちに慣れてきた。ギヤーをローからセコンド、トップ、と入れ替える。だいたい解かったつもりでいた。でも車窓の風景を見て楽しむ、どころではない。しばらくして、郊外へと出るロータリに出た。逆三角の標識が見えてきた。あれは何を意味する標識か、全く解からない。ともかく1時停止、それから走り出した。ロータリを2回ほど周りフョンブイエ方向とかいてある方面へ向けてロータリを出た。あたりは次第に交通量の少ない郊外へそして森の中へと入って行った。

狭い路地を右側に曲がり広場を見つけた。広場を背にして、木の前に車をとめた。そして再びエンジンをかけ外へ出ようとして、ギヤをバックに入れようとしたが、ちっともギヤがはいらない、ローにばかりはいってしまう、ローでは車は、前にしか進まない、どうやったらRのバックギヤに入るのであろう、まったく解からない、これでは罠にかかった鼠、身動きが取れない、

同乗者の父が、【私が車を押そうか】と言ってくれたが、

日本車と違って、重くてびくともしない、また車は人が押して走るものではないので
断る事にした。人がくるのを待った。10分、15分、20分、やっと人影が、

すかさず走りよって、【あなたは車の運転できますか】と片言のフランス語で尋ねた。若い20歳位の青年だった。運転した事が無いので解からないと断られた。それからもう一度人が来るのを待った。

ここは人影のない森の広場だ、うっそうとした森が、灰色に見えてきた。20分過ぎる頃先ほどの青年が父親らしき紳士を連れてきてくれた。片言をつなげて、バックの入れ方が解らないので、教えていただけますか、と言った。紳士は私の運転席に乗ってバックギヤに入れるところを見せてくれた。そして少し動かしてくれた。なんと、グリップのすぐ下のところに丸いリングがついていてそれを押し上げながら、ギヤをRの方に入れると言うことだった。たったこれだけの事で、・ ・ ・
 悪夢から開放された。ほっとした。助けられたと思った。私たちは丁寧にお礼を言いその場をあとにした。それからというものいきなりオートルート高速道路に入ってマルセーユの方に向かった日本と違って道路は片側4車線あるとても皆スピードを出している100キロだと遅くてかえって危険なほどである。130キロで走ることにした。料金所が見えてきた窓で料金を渡したいのだが窓の開け方がわからない仕方なくドアを開けてお金を支払った。これで一応通過次にガソリンスタンドに向かった当時の日本と違ってすべて自分で入れなければならない手がガソリンまみれになった。車をパーキングに止めサービスエリアに入った手を洗うところがありコーヒーを2つ頼んでしばらく過ごした。さあ再出発車に乗り再びオートルートに入ったエクスアンプロバンスという標識が目に入ったのでそこで降りることにした。天気は下り坂右も左も解らないのでアルルに戻ることにした。といってもどうやって戻るのかわからない、すると立て札を持った青年を見かけた。彼を乗せることにした。アルルへ行くことを告げ案内してもらうことにした。車中からはどこから来たかと尋ねたので。答えに詰まっていると、北海道 本州 四国 九州とすべての島の地名を言い出した。彼らにとって日本は島なのだと分かった。それにしてもよく知っていると思った。本州東京と答えておいた。するとその青年があなたの国の総理大臣が倒れたと言っていた。小渕総理のことだようやくアルルに到着して青年と別れてアルルの町中をぐるぐる回ってようやく車に慣れてきた。ともかく初日はこれでお終いホテルの前の無料駐車場に止めホテルバンゴッホに戻った。

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シベリア抑留

      

  私の幼少年期        5
  現在の私の日常       8
  回想            12
  徴兵            12
  最前線覇王城        25
  最前線での負傷       29
  陸軍病院での入院      31


  再び最前線での任務     34
  大山小大長の死       37
  終戦            39
  シベリヤ抑留記(移動と労働)41
  収容所での休日       49
  収容所での食事       51
  共産主義教育の始まり    53
  私の特技を生かして     55
   暖房           56
  日本に帰還         58
  就職活動          62
  結婚妻、貞子の事      68
  水彩画画家へ出発      69
  失業            72
  母、フクこと        79
  子供の事長女和子長男正彦  81
  フランスの旅        86
  私の水彩画         99


 私と水彩連盟展       107
 画歴            112
 私の父親像         115

 

   私の幼少青年期、戦争体験  

私は、今年戌年で満九〇歳になりました。永い人生のなか数々の危機に瀕し、自分自身を失い欠けたときもありましたが、その時も自暴自棄に陥らずにひたすら明日の事を考えて絶望的状況の中でも希望を失わずに好きな、絵を描いて今日まで生きてきました。こうした今日を迎えるには、数々の戦友に守られ多くの友人、知人、家族兄弟親族皆様のお蔭だと思っています。
九十歳になろうとしている老人が今更何を語りたいの、などと思いますが、これでも体を張って生き抜いてきた体重57,5キロ、身長167センチセンチほどの老人が言っているのですから。まあ話に付き合ってみてください。

 現在の私の日常
鶴見にあった富士自動車の研究室で塗装担当の仕事をしながら水彩画を描きだして勤労者美術展に出品し始めたのが30を過ぎた頃ですから25年、以後35年の歳月が流れ。あわせてかれこれ60年の歳月が過ぎようとしています。10時には画室に入り描くときは1日中になることもあります。
  それは今も同様に続いています。そうした私の影響を受けたのか長男正彦も画業を主にとする生活しており今年56歳になろうとしています。
最近正彦が小田原で絵画の展示会に作品を出品していると本人から聞き、さっそく小田原に彼の運転する車に乗り妻貞子と一緒に展示会を見てまいりました。展示会場は小田原の新九郎と言うギャラリーで書店の3階にありました。展示作品はデッサン類や人物画を描いたものが主で25人程のグループ展でした。相変わらず正彦のデッサンはリアルで印象に残りました。 帰りに一緒に食事でもと思い貞子と3人で々の夕食を共にしました。いつも物静かで今まであまり私の前でしゃべったことがない正彦が、突然「戦争体験話を聞かせてくれよ」と言ったので、さてどこからしゃべったらいいのか、しばらく考えておりました。
すると正彦は「忘れてしまったの」と言ったので「そんなことはない、よく覚えているよ、忘れたくっても忘れられないよ」と言いました。
「どこから」と尋ねると、「最初から」コーヒを飲みながら、日焼けした顔の正彦が、目線をこちらに向け半ば真剣な眼差しで微笑みつつ私の言葉を待っているのが感じ取れました。 

    回想

実は私は兵隊に現役で行ったことや、中国の北支で終戦を迎えたこと、その後列車に乗せられ日本とは正反対のソビエト連邦シベリヤに送られ、4年間も強制労働させられたこと、やっとのことで、日本に帰還、その土を踏むや否や敗戦後の荒れ果てた状況に愕然、ほっとする暇もなく、就職活動、シベリヤ帰りは思想教育を受けているからと言う理由で、雇い入れてくれる会社、皆無、そんな状況が私を待っていることなど知る由のなかったことなど、折につけ語ってきたつもりでいました。
でもほとんど聞き流していたのか戦争を知らない世代の息子に半分以上あきらめの思いでおりました。
話してもナンセンスと言われるに違いないと長年思っておりました。
やっと、この私の話を聞くことができる歳になったか、それではと正彦の言葉に動かされやっと、機は熟したか、半分期待を込めて語ってやろうかという思いがこみ上げてきました。さて私は1922年平塚市に生まれ、家は現在港になっているところにありました。須賀仲町九三〇番地、先祖は代々船による運送業を生業としていたようです。
私の父は伝太郎と言い、須賀では代表的な運送船、「春日丸」という船を所有し主に砂利を京浜千葉方面などの港に運ぶ仕事を生業とする、運送業者でした。母はフクと言って、気立てがよく面倒みの厚い人で多くの人に信頼されていました。
何人かの人を雇い仕事を切り回していました。所謂賢夫人というところでしょうか、私は比較的裕福な家の長男として育ったのですが、私の上にヨネという姉がおり、幼少のとき溺死した兄がおりました。下に弟の秋蔵、妹の文江、死んだ兄を加えると5人兄弟の二男ということになりますが、事故にあって、兄が死んでしまったので私が長男として育てられ、昔の習慣にならい家を引き継ぐことになりました。
私が尋常小学校1年生の折、図工の時間、飛行船の絵を描きました。その絵が担任の小早川先生に褒められ、教室にお張り出しになりました。
内気であまり人前で話すのが下手な私にとって先生に褒められた最初の出来事でした。そのことが現在に至る、私の水彩画家としての人生を方向ずけたと言っても過言ではありません、その後横浜にある商工実習校に入学、卒業後は海軍技術研究所「化学研究部」に就職しました。
主に毒ガスについての研究がその主たるものでした。そうした私が初めて絵の手ほどきを受けたのが小西秀逢という日本画家でした。小西先生は当時茅ヶ崎にアトリエを構えられ歴としたプロの画家でした。
そうした先生のところへ休日になると時折遊びに行き、先生も快く私を迎え入れてくれて、行くと時折大きな筆を持ち何も見ずに白い紙から踊りだすような竜を描いて見せて
くれました。
小西先生の影響か、その頃から絵筆を持ち平塚のあちこちを写生することが楽しみとなりました。日本と中国との間で戦争となり、私が出征することを先生に告げると、小西先生は千里の道を行き帰る虎の絵を描いて私にくれました。

 

徴兵

二〇歳の時徴兵検査、医者や看護婦の前で全裸となりいろいろ体を調べられるのですが私当時の平均より少し背が高く痩せてひょろひょろしていたせいか第一乙種合格でした。身長160センチくらいでずんぐりした人は甲種合格で、ちなみに丙種は不合格でした
そうした私が入営したのが二一歳の時です、兵舎が山梨県甲府にありましたので、そこに1週間ほど過ごした後、上官から「明後
日出発につき、別れをしたい者は、家族親戚に電報を許す」という命令が告げられました。翌日母フクと義理の兄そして叔父が見送りに来てくれました。おふくろは御萩を作って私に手渡してくれました。
義理の兄は、「喜代次君、お国のためにしっかり戦って来てくれたまえ」という言葉をくれました。出発は深夜3時、ゆっくりと動き出す夜行列車にのりどこへ行くとも知らされず、1日本兵として、軍服に120発の弾丸の付いたベルトをしめ、銃剣を腰にぶら下げ、背中に重い背嚢を背負い、3パチ式歩兵銃を持たされ、鉄兜を被ったとき、出征するとはどういうことか、初めて知ることになりました。
その時から私は個人としては存在しなく、1人の兵卒としての重責を国から強制的に課せられたということです。有無を言わせぬ巨大な国家のために奴隷のようになって、戦い死ぬ運命を決定ずけられた戦争の道具になったわけです
今で思うと恐ろしいことです、何が善で何が悪であるかは、すべて上官の判断で行われそれに絶対服従するのが兵隊にできるただ1つのことなのです。 
もし戦闘拒否、命令不服従、脱走でもするなら銃殺が待っていました。こうした軍隊の在り様を美化しようとするならとんでもない間違いだと思います。
上からの命令であれば無抵抗の人間の命でさえ奪い取らなければ自分の命がないわけです。こんな非人道的なことですら有無を言わせず、行わせられるのが軍隊なのです。

 

戦地中国へ出発

私たちを乗せた列車は三日後下ノ関に到着、そこから船に乗り日本海を渡り釜山港に到着、また列車に乗り南満州鉄道を行くこと三か月、奉天をぐるりと回り最前線の河南省の新郷に到着したのは、秋も深まり野山の木々もすっかり葉を落とす頃となっていました。そこから三里位行ったところに老田庵(ローデアン)という村に教育兵舎がありそこで三か月教育を受けました。

最前線覇王城

すでに破壊された橋のない黄河でしたが、残った橋げたと柱にロープでつないで1人ずつ籠に乗り流れの速い川を渡ってやっとのことで対岸にたどり着きました。
任務地は一二〇メートル程の覇王城、山の谷を挟んで約三百メールほどの距離に敵陣営があり、下は深い谷底が広がっていました 
敵は蒋介石軍いる正規軍が陣取っていました。日夜を問わず毎日かわるがわる鉄砲を対岸に向け、少しでも敵が頭を見せると銃を撃ち逆に、少しでもこちらが頭を見せると弾丸が飛んでくるという有様でした。
少しの油断も許されぬ膠着状態が続いておりました。私たちは7人程の分隊でした。
最高司令官の名は杉村良平隊長でした。分隊長は本部と常に連絡を取り、一日の行動は隊長からの命令に従って、来る日も来る日も活動していました。
配給物資の糧秣(食料)は、三日おきに本部まで取りに行くのが日課でそのために、

まだ幼い12歳ぐらいの現地住民の中国人少年章本(ショウポン)君を雇い、体の小さい少年の後ろを兵隊が歩くといった形で行っておりました。
何ともおかしな光景でしたが、もちつ、もたれつの、関係がそこにあったようです。1里ほど行ったところに我々の補給基地がありました。そこで米や味噌、ジャガイモを受け取り天秤棒を少年に担がせ我々の任務地の覇王城に向かい、上り坂をゆっくり戻ってくるのです。その当番が二週間おきに回ってきました。
普段は戦闘配備につきながら1日に1回は軍事訓練が行われました。すでに鉄砲の打ち方や基本的な事柄は教育兵舎で、学んでおりましたが、敵と接近戦になったらどう戦うなどということが中心のようでした。当然敵に狙われない安全なところで行うのですが、素早く走り素早く身を隠すといった訓練もあり危険地帯ぎりぎりまで使って毎日決まった
時刻に行われました。


     
最前線での負傷
                         
そんなある日私は足を滑らし我々の陣地から五〇メートル程離れた陣地にの急斜面に転落してしまい、谷底へと落ち敵に体をさらけ出してしまったのです。その時足を強く打ちつけてしまい、動きが取れない状態でいました。自分でも骨折したかなと思いました。山の上から私めがけて集中銃撃を食らいましたが、幸いにして弾は足をかすっただけで済みました。暫くすると同じ小隊の近藤さんが銃弾のあらしの中、命がけで助けに来てくれました。私たちは暗くなるまで待ち、近藤さんの肩をお借りして安全地帯へと戻ることができました。

 

   陸軍病院での入院生活

その後私は新郷の兵舎病院で手当てを受け1週間後北京大学の校舎に日本軍が作った
陸軍病院の病棟に入院することとなりました
そこで私の足は頑丈に石膏で固めたギブスに固定され食事から排尿、排便まも不自由な生活を送ることになりました。
そうした入院生活が三ヶ月続きました。私の隣のベッド人は関西弁でしたので関西の人ではないかと思われましたので、尋ねると奈良出身若林という名の人で私とは一級下の方でした。彼は地雷を誤って踏んでしまい右大腿部から切断した状態でした。かれは戦闘に復帰できない体になってしまっていましたから、傷口が塞がれば母国に帰る予定となっていました。戦地では何が幸いするかわかりません、彼は生涯傷痍軍人として生きていかなければならない身になってしまいましたが、これで銃弾を受け骨になって帰ることはほぼ90%なくなったのです。
それから私の方は骨がつながりギブスを外す頃と、なりました。3か月固定されたままでいたのですから私も足はそう簡単に動きません、
今度は体を1日でも早く動かせるようにリハビリのため、湯治場で1ヶ月ほど過ごし体を温め、自分で足を揉みやっとのことで元のように足が自由に動かせるようになったのは3週間後でした。

 

 再び最前線での任務

そして原隊に復帰、新郷兵舎に戻りましたらすっかり以前の分隊の仲間はおらず、聞くとによると南方に動員されたようでした。
そのことが後になって生死を分けたということになりました。私を向かいいれてくれたのは年が二歳ほど若い初年兵でした。私も1階級上がって上等兵になりました。
その頃は覇王城でのにらみ合いの戦闘はすでに終了して、討伐に行くことが多くなりました。
ある日、中国人村が、日本軍と八路軍との戦闘によって壊滅的に破壊が行われたという情報が入り、真夜中たたき起こされ、その村に分隊で行くことになりました。到着すると戦闘はすでに終了しており住民は山に逃げて、家は叩き壊され、あちこちに味方の兵隊の屍が散乱しているという状況でした。
さっそく近所からマーチョという馬車と馬を調達して、遺体を乗せ味方のいる陣地ま

で運んできました。陣地に到着するとこれらの遺体をまとめて火葬にして骨だけにするのですが、これがまた大変な作業でした。すっかり骨だけになったものを今度は誰の骨かわからず認識票が骨についているものから骨壺に詰めることをしました。そうしことの繰り返しがこの戦場で課せられた任務でした。

 

大山小隊長の死

血気盛んな大山小隊長がある日、敵陣へ討伐に行き戦死した知らせを受けました。さっそく遺体収集に向かいました。行ってみるとあんな立派な人が軍服も脱がされ、ふんどし一丁にされ放り出されているのを仲間が発見、見るも無残な姿で倒れていました。何も大山さんほどの人がいったいなぜここまで討伐に来る必要があったのだろうか、という思いがこみ上げてきました。戦争とは人と人を
殺しあう関係にさせてしまう、誠に恐ろしい状況を作り上げてしまうのです。大山さんら七人程の遺体をマーチョョに乗せ運ぶことになり、この人にも親や兄弟がいただろうに誠に残念なことになってしまったと思い、目頭を熱くして帰路につきました。
こうした戦闘状況が2年過ぎたころ、サイパン陥落、硫黄島玉砕の噂が仲間内から聞かされました。これで日本もいよいよだなと心のうちで思いを巡らせていました。その後沖縄戦敵軍上陸が開始され、沖縄も陥落、広島と長崎に新型爆弾が落とされたことも、どこからともなく伝わってきました。

 

終戦

そして敗戦日本がとうとうポツダム宣言を受諾して無条件降伏したことを、私は北支
で知りました。さあこれで終戦、やっと生き延びて日本に帰られる期待で胸を膨らませて列車乗り込みました。列車は、定刻にゆっくりと走り出しました。満州奉天駅前で武装解除を受け、手帳や写真まで取り上げられ、捕虜同然のかっこうで宿舎に一週間ほど、そしてある日、列車に乗せられました。その時はウラジヲストックに向かい日本に帰れるのだ、かとばっかり思っていました。半月ほど乗って、「どうも様子が変だぞ、この列車は西に向かっているぞ」と仲間内からささやき
声が聞こえ、車窓を見ると風景が確かに違っていたのです。
次第に目の前にバイカル湖が見えてきました。その時、日本に帰るという希望は完全に打ち砕かれてしまいました。

 

シベリヤ抑留記 移動と労働

シベリヤに着くまでは、ハルビンからブラゴエチェンクスそして、ハイラルをとおってバイカル湖の手前の駅に着きました。それからウランウデのちょっと先の駅のないところで、降ろされました。
見渡すと五百人から六百人ほどの日本兵がいたでしょうか、収容所はそこから半日ほど歩いたところにありました。
収容所はかつてドイツ人捕虜が収容されてたところで周囲は鉄条網のフェンスで囲われており、三か所の見晴らし小屋に監視兵がおりました。
収容棟は全部で三棟あり1棟に二百人程寝起きができる二段ベットがあり12畳ぐらい仕切られて、細長くうなぎの寝床のように続いていました。壁は丸太小屋のようになっており、窓は各部屋にⅠつ程あり2重ガラスになっていました。
翌朝から旧日本陸軍が使用していた防寒着が支給され、さっそく17人ぐらいのグループにわけられ外で2列になり整列、人数が数えられ確認が終わると、森林のあるところまで歩かされ、直径40センチほどの赤松や20センチほどある白樺の木を両引き鋸や斧で切り倒す作業を1日やらされたものでした。
細い枝は集められ燃やし1時間に5分ほどその火にあたり体を温めることがゆるされました。とにかく気温がマイナス37~8度の所での作業ですから防寒着を着ているとはいえ尋常な寒さではありません。一時間に五分では、とても足りません、体の弱い人はその場で倒れて凍死です。幸い我々のグループからはそうした人は出ませんでしたが早朝の整列の時起きてこないので部屋に探しに戻っ
たら冷たくなっておったという人が何人もいたことも事実です。
確か外気温がマイナス四〇度になると外出しなくてもよいという命令が出るのですが、マイナス40度にはめったにならないのです、こうしたことはマイナス三九度を体感した者でないと解らないことだろうと思います。そうした作業をすること一か月たった頃移動命令が出てどういう訳か、アメリカ製のトラックに乗せられ、イルクーツクの街中にある大きな二階建の収容所に収容されました。そこはバイカル湖が一望できるところにありました。そのそばに蒸し風呂小屋があり1ヶ月に一回ほど入浴が許されました。
そこでの作業は道路工事が主で、道のふちを深く掘り、土管を敷設するといった作業でつるはしやスコップといった道具だけで作業するのですから、疲れること疲れること尋常ではありません。
食事は朝昼2食分おかゆ一杯と黒パン1かけらスプーン1杯の砂糖だけです。昼もそれらを弁当として重労働するのですから、腹が減ってたまりません、考えること語ることは食べ物の事ばかりだったことを記憶しています三十人程のグループごとに1つの工事作業をしていました。
その作業中にわれわれの事をあわれに思ってか、仕事中の2人3人に老夫人がクッキーや黒パンを皆で食べるようにと手渡してくれました。そのことは、今でも忘れることができないほど嬉しいことでした。
かつての伐採作業よりは道路工事の方が幾分楽なような気がしましたが、朝死んでる人は相変わらず同じ位だったようです。
病気を発病したら病院棟に隔離されますが、ほとんど死亡するのが常のようでした。
死亡者が出るのは殆ど冬の寒い時で、栄養失調と寒さによる突然死でした。
遺体は寒い冬マイナス30度の中で土葬するのですが、土が凍っておりせいぜい30センチから40センチ、1人入る穴を掘るのに丸1日かかりました。

 

収容所での休日

一応日曜日は休日となっておりましたが午前中は大掃除、床から窓から、便所手洗い場がおわるとベッドの寝具をきれいに折りたたむ作業が待っておりました。それが終了したのち看護の女少尉が来て点検に歩き周り少しでも汚いところが見つかると「ニーハラショ」とえらい剣幕でやり直しをくらうのです。よろしいと言われた日は午後から自由時間となりますが収容所内での自由時間ですから何することもなく仲間内でただ食べ物の話や来年の春には帰れるのだろうかなどの話が出たと思うとまだ3年くらいはだめであろうとか意見が錯綜して床に就く時間となってしまうのです。

 

収容所での食事

日本兵の中からかつて炊事兵として働いた経験者が2~3人選ばれ炊事専門、あたることになっておりました。その人たちはとにかく毎日の重労働からは解放され厨房で、高粱と麦に少しの鮭の混ざったおかゆを作り、黒パンを全員に約3〇〇グラムを配りました。おかゆは飯盒の約3分の1それと砂糖1さじそれが朝昼晩に1日3回とても重労働に見合った食事ではありませんでした。たまに鮭の肉が少量はいったおかゆが、出ることもありました。昼の弁当にもらったものは、朝殆ど食べてしまい。昼には手当たり次第食べ物を探し残りの粥に入れて炊きました。
赤蛙とか草ではアカザが美味でした。ともかく1年中腹が減って仕方のない状態で皆ふらふらでした。

 

    共産主義教育の始まり

当時のソ連日本兵共産主義の教育をして啓蒙して日本に送り返し日本を共産主義化しようとする目論見がありました。日本兵の中からそれに共感しソ連共産主義の理想を語ることができる人材を見つけ出しては、日本語の堪能なソビエト軍人に教え込ませていました。そうした日本人を『アクチブ』と呼んでおりました。そのような教育が始まったのは抑留生活三年を過ぎたころよりだったと思います。教育は各グループに分かれ、その理念を耳にタコができるまで聞かされたものです。また『アクチブ』になった捕虜は収容所でも楽なところへ回されるという特典つきだったようです。逆にそうした思想教育に反論の素振りでも見せたら監獄のようなところへ追いやられるという噂を、耳にしたことを覚えています。


 私の特技を生かして

すべて日本語で書かれた通称壁新聞のカットを頼まれて描いたことがあります。そうしたことで評価されると、一日労働から解放され特別にしつらえた部屋でくつろぐことが許されます。まさに芸は身を助けるといった言葉通り、の一日を過ごしたことを覚えています。今強制労働を強いられた時のことを思うと、普通の日常の生活が不思議と天国にいるような気持にさせられるのです。 

 

暖房

外はマイナス37度でも部屋の中は20度程に保たれていました。それは部屋ごとに煉瓦でできた四角い暖炉のようなもので、ペーチカと呼んでおりました。燃料は石炭その暖気が部屋を、ぐるっと一回りして煙突から排出されるのですが、一応暖かくはなっておりました。燃料の石炭は豊富にありました。昔ソビエトは戦後貨幣価値が急落した国で、給料がトラック一杯の石炭で支給されたという話を聞いたことがあります。北欧では石炭は生活する者にとって必要不可欠のものなのです。

 


日本に帰還

四年を過ぎたころダモーイ列車(帰還列
車)が走っていることを仲間の1人が発見いたしました。というのは日本人を乗せた列車の中から一人の日本人が手を振り、「帰れるぞ」と叫んだのをと確かに聞きとったとを話してくれたのです。その時、ほのかな希望が、芽ばえてきたのを覚えています。それから半年たった頃、やっと帰還命令が出て帰還列車で東へ向かう列車に乗り込み一か月程でナホトカの港にたどり着きました。日本の輸送船がなかなか来ず一週間待ちました・・・その間も道路工事の仕事をさせられました。
やっとのことで、日本に向かう船に乗り込んだ時は、人生最高の喜びでありました。その気持ちは今でも鮮明に覚えています。また幽かに日本の陸地が見えてきたときはあまりの嬉しさで、涙が止まりませんでした。周囲の人も、涙をながしていました。お互い体を抱きしめあって喜んだものです。そして日本の舞鶴港に着いて検疫、身体検査をして宿坊に二泊いたしました。 
そして、生きて帰ってこれたことのありがたさをその時ほど感じたことは、後にも先にもありません。
それから仲間と別れ、それぞれの郷里に向けて列車に乗り込み私は小田原駅に到着、新聞で聞きつけたか勝利叔父と従兄弟の勝さん(マサルさん)が迎えに来てくれました。八年ぶりの再会でした。3人で平塚駅まで帰り、まずは氏神三島神社に参拝、須賀の近所のおばさん叔父さんに帰還の挨拶を済ませ家に向かうとすると家があったところは港になっており家ごと現在の夕陽ヶ丘に移設されておりました。そこで母のフクと父の伝太郎に再会いたしました。
その時の両親の喜びようは、今でも忘れられません。またその時、弟の秋蔵が兵役の年齢でないのに自分で志願して中国に行っていることを知らされました。終戦満州で迎え同じくシベリヤへ送られていることを、後で知ることになりました。
幸いにも弟の秋蔵も無事帰ってきました。

 

   
就職活動

帰ってきた喜びに、いつまでも浸っているわけにはいきません。さっそく就職活動を開始しなければなりませんでしたが、終戦から四年経っているとはいえ、日本がこんなにもアメリカ軍の爆撃で廃墟になっていたとは思いもよりませんでした。
それでもたった四年であちこちに工場が立ち上がっていました。しかしまだ人を大量に雇う会社は少なく、シベリヤ帰りの男は共産主義の教育を受けているので、会社ではあまり歓迎されないという風評が出回っていました。
そうした折、私が帰ってきたのを新聞で見たのか、かつての海軍技術研究所の後輩の田代さんが、私のところまで訪ねてきてくれて、豆炭の会社の営業部で働けるよう手筈を整えてくれました。仕事は豆炭の販売網の拡大、「商品として仕入れていただきたい」サンプルを持ってあちこちの商店へ品物の売り込みでした。
口下手な私には大変苦労する仕事でありました。1年程働きましたが、この仕事に就いていけず、実はこの時私は転職を願っておりました。
そうした折、大船に住む兄は鶴見地区の職業監督所監督官をやっており、私が転職したいと申し出ると、兄が鶴見の大黒町にあった富士自動車の工場長を紹介してくれて採用されました。
当時朝鮮戦争の特需景気で工場の仕事を拡大しようとしていた会社でした。初めは現場の仕事をやっておりましたが海軍技術研究所で働いたことが評価され研究室勤務となりました。
研究室には、私を含めて四人で同志社大学の化学科卒業の高野さん、米沢高校卒業の黒崎さん、あともう一人は忘れましたが私以外三人は高学歴の人たちでそれらの人々に教えていただきながら接着剤の研究や塗装の技術などといったことを研究していました。自動車工場なので車のハンドルも作っておりました。
木製ハンドルの絵を私が描き壁に貼っておきましたら、工場長の目に留まり、それが評価されたのか翌日から1週間ほど工場長と1諸に工場内を視察することになりました。
その時当時国産の自動車はあまり需要が伸びず、主な収益は朝鮮戦争で大破したジープや輸送トラックの修理といったことに依存していることがわかりました。戦争が終わる
と、工場は閉鎖に追い込まれると思いました。案の定、戦争終結とともに私は失業の身になったのでした。

 

    結婚妻、貞子の事

富士自動車に勤務していた折、人を介して、見合いすることになりその時出会ったのが現在の妻貞子です。妻貞子は伊勢原生まれでその時は小学校の教員をしておりました。当時は人手不足で女学校卒業していれば教員になれたようでしたが、貞子は師範学校卒業(今の横浜国大)でした。戦争で男が少なくなってしまっていたこともあって、結婚が成立いたしました。

 

 水彩画家への出発

私は青年期に正式な美術教育受けたわけではありませんので、デッサンなどは見様見真似で描いておりました。研究室務めであることが幸いして仕事を終了して社内での文化活動が許され、美術部に入部して静物を油絵で描きました。
それを、神奈川勤労者美術展に送ったところ初出品で特選に入り、その後全国勤労美術展では労働大臣賞を受けました。その時の審査員が木下孝則、加山又造で加山先生から「木下先生が大変褒めていたよ」と知らされました。その後絵を学びたいという思いを家内に打ち明けたら家内が茅ヶ崎で中学の美術の先生をしていた三橋兄弟治師を紹介され、当時上野の東京都立美術館で開催されている水彩連盟展にさっそく出品するように指導を受けました。
八〇号ほどの作品を2枚描き出品しました。描くテーマは抽象的に構成されたトロッコシリーズでした。その作品が当時水彩連盟という公募展に受け入れられ、四年程の出品で会員に推挙されました。
それ以来水彩連盟1筋に五六年出品し続けております。若し水彩連盟の会員になっていなかったら、これほど大きな絵を描くこともな
かったと思います。


    失業

朝鮮戦争終結とともに富士自動車は倒産し失業の身になりました。
幸い妻の収入がありましたから食べるには困りませんでしたが、といって絵を描いても売れる見込み込は一向にありませんでしたので、再就職を鎌倉の義理の兄にお願いしたところ鶴見にある日東味の精という会社に就職することができました。
そこでは経理事務をしていましたが、当時、味の精はカセイソーダから作られるグルタミンソーダを作り食料品店に並べておりました。それに競争相手の大会社味の素がありました。
グルタミン酸ソーダはご飯にかけて食べるとおいしく食べられるのみならず頭がよく
なる化学物質であるという、世間的評価が幸いして売れ行きを伸ばしておりました。次第にその人工的に作ったグルタミン酸ソーダを多量に摂取すると体に悪影響及ぼすといった内容の研究報告が新聞で告発されてから急速に消費者が購入しなくなりグルタミン酸ソーダのみ作っていた味の精は倒産の憂き目にあいました。
当然私もまたしても失業、でも希望すれば親会社の鶴見ソーダで雇い入れてくれるという条件付きの失業でした。
当然今度は鶴見ソーダに就職いたしましたが、いままで事務系で働いてきたのに仕事が毎日現場での重いものを運ぶ作業が多くなりました。時には手にバケツ1杯半ほどもって階段を上り四階までいく作業の重労働でした。あれは会社側から自ら退職をするように仕組まれていたのかなどとも思いました。義
理の兄はすでに他界しており頼るすべはありません。結局肉体がついてきませんでしたので1年程で退職、地元平塚で職業安定所での世話になることになりました。失業中当時は職業訓練所で給料支給されながら自動車の運転講習が受けられルことができそこで3か月ほどで免許取得いたしました。
すでに妻は働きながら自動車学校で免許を取得していましたから、妻の乗るホンダk360という当時人気の軽自動車があり私もその車を使って夫婦で新潟方面まで行ったことを覚えています。
それからこの機会に画家になりレタリングの看板業を副業に始めようとしましたが、副業も画業も一切職業にならないのであきらめました。
そして安定所から紹介されたフランスベッドの集金係をしましたがこれも私に向いて
おらず退職、最後はエアーフィルターという空気清浄器を作る会社に45歳より55歳まで勤めました。現場での作業でしたので生傷が絶えませんでしたが一〇年勤め上げ五五歳で定年退職をそのまま受け入れ、画家一筋でやっていこうと思う決意が妻や母に認められ文字どおりの水彩画家になりました。
でも厚生年金は富士自動車時代から継続して入っておりましたので六〇歳からもらえることを前提にしておりました。
妻も小学校の教員の音楽専科を任されておりましたので、自動車で通勤をするようになりました。以後勤務が多少楽になっていったようです。五十五歳からは妻貞子の扶養家族になり私も安心して画家としての毎日を送れる身となりました。
                    

    母、フクの事

 

父は私が戦争から帰ってきてからずっと病気がちでほとんど寝たり起きたりの生活でしたので、昭和36年78歳で気管支炎から最後肺炎で亡くなりましたが、母フクは丈夫で八五歳を過ぎるころまで朝から食事の用意夕食の支たく洗濯まで1家の主婦がするすべての事をしてくれました。そのおかげで妻が五五歳まで勤めることができた訳です。長男が結婚してその間にできた子供が一歳の誕生日を迎える前九二歳で他界いたしました。今思うと私は2人の女性によって支えられたということになります。1人は母もう1人は今も健在の妻貞子です。
 
子供の事 長女、和子 長男、正彦

長女和子は小さいころから明るく友達付き合いもよく学業成績も普通以上だったようです。家から近いところに高浜高校という女子高がありましたので、そこに進学卒業後は
横浜の栄養女子短期大学に進み、結婚し長男長女に恵まれ現在、横浜の保土ヶ谷区に家を購入し生活しています。長男の正彦は私の影響か小さいころから絵が好きで暇さえあれば絵を描いている感じでした。高校は大磯高校に進みましたが勉強が面白くないのだか家に帰ると期末テストの前でも絵ばかり描いておりました。私がやったこともない石膏デッサンなどに夢中になっており夜遅くまで学校の美術室でデッサンに励んでもいたようです持ち帰るデッサンはどれも素晴らしいものばかりでしたが私はデッサンの専門的基礎教育を受ける機会がありませんでしたので、息子には何とかしなければと思っておりました。三年生になった折、本人が東京の予備校で夏期講習を受けたいと申したので、お金を二十万円程だして行かせました。本人は東京の予備校の体験から大きな劣等感に打ちのめされていたようでした。
全国から集まる絵描きの卵がそろうところだからあたりまえだよ、と励ましたことが、あります。言わずとも画家では食べていけないのが正彦自身私を見て解っていたようで、浪人して芸大を目指すことは考えていなかったようです。
私が東京造形大学という素晴らしい大学ができたことを話すとさっそく資料を取り寄せたようです。すると息子が取り寄せた学校案内に、佐藤忠良という名前が書かれておりましたので、さっそくこんな有名な先生に指導を受けたらいいなといったことをおぼえています。
そうした言葉に影響されてか一~二校に絞り受験一校は落ちたものの本命の造形大学が受かりほっと致しました。その後四年間八王子の高尾にある大学で基礎からデッサンを学んできたようです。
よく私も妻も母も息子のデッサンのモデルにされたものです。
私も息子に影響されてか写実的な描き方で梨や、山の里の藁葺の民家を描きに誘われて行ったものです。ところが息子の素描力にはとても勝てず自分の絵はマンガだと息子に言ったこがありました。
正彦は大学を卒業すると同じく中学の美術教諭として働き一〇年で退職、以後高等学校の非常勤講師として働いて他の時間に絵を描くといった暮らしを始めて今五六歳にな
ろうとしています。

 


    フランスの旅

長男正彦が絵画を制作する上で一年に二回ほどフランスに行くようになり、当時はユーロ化される以前でしたので航空運賃がとっても安く10万ほどで二週間旅してもお釣りがくるときがありました。勿論英語ができる正彦の後についてゆくのですが、その代わり一泊目のみ予約してあとは行き当たりばったりの旅でした。たくさんのフランスの風景に接してたくさんの作品を描きましたところ変われば品変わる、のごとく、毎日驚きの連続でした。その時は7〇歳代でしたのでまだ今より体力がありました。自転車でフォンテンブローの街を走り回り迷子になりかけましたがやっとのことでホテルまで戻ることができ近所でスケッチをしたり、カフェでパンとコーヒを飲みながら時間を過ごしました。 
翌日は曇りだとパリ出てルーブル美術館

でぶらぶらしてついでに市内見物もして多くのあこがれの美術文化に触れました。
ルーブルの帰りメトロ(地下鉄)は大変混雑して長男とはぐれてしまったことがあります。その時ばかりはあわてましたその場にとどまればよかったのでしょうが、あわててメトロに乗り込んでしまい、リヨン駅の改札を出たところで待つことにしました。
私以上にあわてたのは正彦だと思いますが、幸い四〇分ほどして同じ改札口に来てくれましたので助かりました。
それからホテルに戻って一安心、トイレに行くと内側のノブが盗まれてなくなっておりそれに気が付かず入ったものですから出るに出れなくなってしまい大きな声で「正彦出
れないよ」と叫んだことがあります。
日本人は正彦1人ですからもしいなかったら次にトイレを利用する人を待つしかありません。幸い部屋に正彦がいましたので飛んできてくれましたが、まったくこんなトイレを使ったのは初めてのことです。夜中の九時ごろマルセイユにつきホームに立っていたらミストラルという季節風に押されて倒れそうになったことがあります。日本の台風から比べると、たいしたことのない風ですが、これが太古の昔から吹く風だと本で知っていたものの現実に体験するのは初めてのことです。その後セルフサービスの店でオレンジジュースとサンドイッチを食べ巴里へ向かう列車にのったは、いいが座席には人々でいっぱいでした。車内は真っ暗で人々の眼ばかりがキラキラして不気味でした。
ゆっくり走りだし車掌が来たので息子が
アルルに行くかと言っているのが聞き取れました。車掌はここにスペルを書きなさいと言ったので(ARLES)アルルと書いていました。列車が夜一〇時ごろ到着すると後ろから若い日本人らしい女性がくるではありませんか、さっそく「あなた日本人ですか」と聞くと「そうですが」といってくれまして、とても感動いたしました。まさかこんな夜中に、しかもフランスのアルルで会えるなん
て考えてもいませんから、さっそくホテルバンゴッホの行き先を訪ねることができました。 またアルルでレンタカーを借りて正彦の運転でいろいろまわりました。最初の一日目朝8時に車を借り正彦が慣れるまで街中から交通量の少ない郊外へと向けて走り出したところ、最初は調子よく運転していましたがある広い駐車場を見つけて駐車しました。車の前は木か生い茂っておりました。エンジンを
切りしばらくしてエンジンをかけたらバックギアーになかなか入らないようで困っていました。私が「車を前から押そうか」と言いましたら正彦が「そうした問題じゃないよ」と言っていました。近所の人を連れてきてバックギアの入れ方を教わっていました。
その老紳士に丁重にお礼をしてその場を後にすることができました。
それからというもの車でエクサンプロバンスへいったり。ヒッチハイカーのフランス人青年を乗せてアルルへ向けて走っておりました。車内でフランス人青年から「あなたの国の総理大臣が倒れたよ」と聞きました。フランスでも日本の政治の事に注目しているのだなあと思いました。青年と別れ私たちはかつてファンゴッホが旅したというサントマリードラメールまで行きまた。初めて地中海を見たのですが、海には見
えず大きな湖、かつての捕虜時代のバイカル湖を思い出し何か複雑な思いにさせられました。


125年前ほどオランダ人画家フィンセントファンゴッホも今と同じ海を見ていたのかと思い巡らすと何か感慨深いものが私の胸に迫ってくるのでした。
私の頭にはサントマリドラメールという言葉を聞くとどうしても、かつてゴッホが描いた絵画と結びつかずに海を見れなくなってしまうのです。
ゴッホの絵画はモネなどの光の感じを写しとるといった外向的、写生的絵画と違って自分の心象を重点に置き描いています。ゴッホの絵を私は画集でしか見なかったにも拘わらず知らぬ間にゴッホが私の体に乗り移ってしまっているというか、絵を見たり手紙を愛読するとそんな気持ちになるのです。私はど
ちらかというとゴッホ的な表現主義の絵画から出発いたしましたからわたしの第2の心の故郷でもでもあります。


さていよいよ我々の旅も終盤となりフィンセントが1年間閉じ込められていたサンレミの修道院および精神病院にやってきました。精神病棟は完全に封鎖され厳重にロックされておりましたが唯一郵便受けを発見しました。
それは道路沿いからバイクに乗りながら配達員が差し入れられるように、そして中の人が座った状態で受け取れるよう。(横30センチ高さに4センチ程)に唯一外に開かれた入口のように思えました。今でもゴッホと同じ規模で存在していることを思うとフランスの歴史の厚みを感じさせられます。私は
そんな思いを込めながらここで数枚の作品を作りました。

 

私の水彩画 

水彩画には大きく分けると透明水彩画と不透明水彩画に分けられます。私は長年約六〇年水彩画を描いてきました。主に大作を描く時は、不透明水彩を用い小品の時は透明水彩を、用いて、描いてきました。絵具は『くさかべ』や『ホルべイン』社といった日本製の絵具を愛用しています。紙はワトソン紙すべて日本製です。巴里の画材屋では、老舗のセヌリエが現在でもルーブル美術館の見えるセーヌ川沿いに、創業以来三五〇年の時を刻んで立っていますが、意外と規模が小さく少数の画家や愛好家の需要にこたえているといった感じです。それに比べると日本の世界堂新宿本店などは五階建てのデパートのようですべてが画材売り場です。いつ行っても人が多くてレジでは待たされるといった繁盛ぶり
です。
いかに日本人画家やアマチュア画家デザイナーが多いかわかります。パリの約百倍といった感じです。ですから日本では世界のメーカ品が容易に手に入ります。
逆にパリでは日本のメーカー品は全くと言って手に入りません。ですからパリで岩砕を使って和紙に金箔を貼って日本画を描くということは、日本から持ち込まない限り不可能です。
逆に日本では世界中の絵やデザイン、彫刻、版画、活動するのに必要な画材が容易に手に入るのです。どうしても手に入らないのはモデルさんぐらいです日本で西洋人をモデルに絵を描くことはほとんど不可能な話ですそれはモデル紹介所に外人モデルは登録してません。それと日本でヨーロッパ風の街並みや山や川は描けません。地震大国日本ではヨーロッパ風と言えば若干丸の内側から、見た東京駅くらいといった、ものです話を水彩に戻すことにいたします。水彩の魅力は何と言っても手軽に早く描けるといったことでしょう。においもなく、水で溶いて使うのですから簡単です。
間違えて絵具を塗ってしまいましても、重ね塗りというよりスポンジで絵具を吸い取り描きなおすこともコツを覚えてしまえば簡単です。
これほど簡単で大作から、ミニチュアまで描けるのははっきり言って水彩画のみであろうと思います。ただし売り買いすることに関しては、水彩は画商にも市場にも無縁です。要するに売れないことに関しては王様です
かれこれ六〇年間描いてきて、私が下手なのかもしれませんが、今まで画商にかかわることは皆無、小品は別として大作が売れたためしが、ありません。材料が主な原因だと思います。水彩画家というイメージがそれに拍車をかけているといったかんじがあります。
最近正彦が水彩画のみの展覧会を小さなギャラリーで開催して、ある程度の売り上げを作っていることから見ると不思議で仕方がありません。正彦は水彩をやろうと油絵をやろうと彼は世の中から油絵画家として理解されているのかな、水彩画家と油絵画家とどう違うのかと思われますが、違うのです。画壇での評価といったこところでしょうか、水彩画家をもっと認める世の中になってほしいと願いますが、日本では無理のようです。あと五〇年位かかるかなと思ったり致します。遠い話です。私はこれといった画家から影響を受けて画家になったわけではありません。気が付いてみたら水彩連盟展の無鑑査出品となっておりまし
た。きっと少し器用だったのか、いまだに下手の横好きと申しましょうか、自分では納得のいく作品ばかりと思っていますが、絵がたまる一方でとうとう正彦の家まで山済み状態です。
幸いにも彼も画家ですのでそれらの作品を大切に保管してくれています。とにかく水彩画は技術で描くものではありません、どれほど心が入っているかが最も大切です。つまり心で描くのです。また水彩はその心が、とても表しやすい道具であることに間違いありせん。

 

私と水彩連盟展

毎年日本中から出品がある日本最大級の水彩画専門の団体展で会場は主として六本木にできた国立新美術館で春に行われます。私を入れて会員百人程の作品が並びます。作品の大きさも様々ですが、大体畳二畳以上の作品が多く。それでも小さい方です。畳六畳もある壁画のような作品を出してくる方もいます。そこに出品して以来五五年の歳月が、たちました。審査員も五〇年くらいやっていますが、未だにこれといった作品に出会えないのも残念です。この団体から画商がつくようなプロ作家は皆無であります。ですから皆何かしら正業をもち余暇に描いた作品を出品してきます。水彩連盟から二名安井賞作家が輩出しましたが彼らもその後日動画廊とかで個展開催したことは知る限り、聞いたことはありませんでした。
でも私にとっては水彩連盟は唯一の作品発表の場であり研鑽のためのよき場でもありました。
水彩連盟でも私が八〇歳を過ぎたころか
ら規約により会費免除となっています。でも最近は健康上のこともあり大作を描かなくなりましたので、出品を取りやめようとも考えています。畳半分でも無鑑査ですので展示はしてくれますが、なにか急に大家のような振る舞いで仲間から顰蹙を買うといけませんのでこの機会に方向ずけようと思います。
これからは地元平塚美術協会だけにしたいと思っています。あと正彦が代表者となっているギャラリーこまの個展のみにしようと思います。今年も九〇歳にして開催する予定です。
最後に私の好きな有名な平櫛田中という木彫家の言葉と好きな俳句を書いておきます。
絵描き七〇~八〇歳ははなたれ
小僧九〇にして一人前男仕事は
百から百から    平櫛田中
盗人や、わすれ置きたる窓の月 
良寛 

                    
●画歴 小泉喜代次

1922大正十一年、平塚市に生まれ
1943年 北支に1出征
1959年 勤労者美術展で労働大臣賞
1961年 水彩連盟展に出品
1962年 水彩連盟展ミューズ63 |
1964年 水彩連盟会員となる      
1074年 毎日新聞社月刊エコノミス  トの誌の表紙となる
1983年 オランダ美術賞展入選
1986年 日米現代水彩画展出品


1988年 ソウルオリンピック国際水
      彩展画展出品
1983年 日中韓3国親善美術展招待  


日本美術家連盟会員
水彩連盟会員
平塚市夕陽ヶ丘50の12在住

 

あとがき

これらの文章は私の妻貞子をまじえながら校正し作成いたしました。多少読みずらいことや誤字などがありますが、ご了承ください。

 

私の父親像 小泉正彦


物心つく頃私は父親という大きな体をした、まるで偉人伝に出てくような人、溌剌とした尊敬すべき塔のような大人に見えました。


私は子供心に自分もこのような大人になれるのだろうか父を乗り越えていけるのだろうか、心配になり気弱になったりしました。それほど私の少年期は常に不安と希望が表裏表裏一体でした。そうした思いが私をあるとき猛烈に学習に駆り立て、学力も体力もない少年の心を支え、ある時は学力を大幅に伸ばし学校の先生方に褒められたこともありました。
友人にはこのころから僕の父親は画家なんだと、言いふらし始めました。そのことが友人や女子生徒の魅力として映ったのだろうと思います。私自身も画家の子供だということを誇らしげに思っていたものです。
高等学校は一年生の時、父親が審査員の
一人として参加している平塚美術協会展に出品、佳作賞を頂きました。そうして次第に現代絵画の虜になっていきました。


高校ではほとんど学習活動に興味が薄れひたすら絵画の事ばかり考える。異常な高校生になっていました。周りの同級生ともあまり交流するこすることなく孤独な生活に甘んじていました。学習活動も一通りの課題を提出して落第しなければいいや程度のきもちでいました。その頃から美術書を読み漁るようになりました。そうしたことが高校での国語能力向上の力になっていったこともあり、とりわけ勉強せずとも中間ぐらいに、いることができました。
二年生の後半から美大受験勉強に目標を据えて放課後はひたすら石膏デッサンに明け暮れるようになりました。
そうした青年に成長できたのは父親の影響なくしてはあり得ません。ただ私が美術室で描いたものは一切父親に見せることがなくなりました。

遅れた反抗期にさしかかってきたのだと
思います。父親を何とか乗り越えたいと思うようになりそれには、1流の美術家に講うしかない、その弟子入りとは、熱愛する写実の巨匠の教える大学に入るしか道がないと思いました。3年次は美大1校、目指して猛烈に受験勉強を開始、現役であこがれの東京造形大学に入学を果たしました。
このころ芸大へ行きたい思いもありましたが考えることもあり受験はしませんでした。 そして大学の4年間親の援助のもと、存分にデッサンや彫刻のことを佐藤忠良師から学び、芸術上の父親が忠良先生と思うようになりました忠良先生も私の彫刻が完成するまで私の学習に手助けをしてくれました。そして大学を卒業と同時に中学の教諭となり10年務め退職、画家として今度は再スタートして23年たち今日に至っております。こうした私にとって父とはどんな人生を送り今日に至っているのか自分を知るうえで絶対欠かすことのできない人物であります。私は自分とは何者であるのか知るうえで1番研究すべき1番身近でかけがえのない存在として、いま私は考えようとしています。
私は十八の頃キリスト帰依し洗礼を受けました。宗教では熱心な仏教徒でもある父親とそのまま対峙していますが、人としては最高に善き、隣人何でも相談相手に乗ってくれる人として頼りにしているのです。これからも健康で、私の芸術の師、最近九八歳で逝去された佐藤忠良先生ぐらいまで、いれ以上長生きをしてもらいたい人物なのです。

 

平成二十四五月    深夜

  

 

 

 





 私にとっての具象彫刻、絵画との出会い 
                                   小泉正彦
油絵を描き始めて45年の歳月が流れました。

 初めの頃はピカソやブラックと言った画家が好きになりキュービスム風の絵を描いていましたが、18歳になるころミレーやコローと言った17~8世紀の画家の作品に関心が芽生えて、近所にスケッチに出歩くようになり、あちこちの風景や静物を鉛筆でデッサンするようになりました。

ミレーのように描きたかったのですがとてもとても真似できませんでした。

自分なりにクロッキーのようなことばかり致しておりました。

送られてくる芸大合格者の石膏デッサンの複製に驚きを感じたのもこの頃です。

どうしたらこんなに量感の感じるデッサンが描けるようになるのか17歳の私には解りませんでした。

私は写実絵画を描くにはどうしてもその専門の学校へ行きデッサンを1から学びなおす必要に迫られました。

お茶の水美術学院で石膏デッサンを学んだ後、佐藤忠良の教える東京造形大学彫刻科1本に絞り込み受験を致しました。幸いにして運よく合格して4年間、そこで粘土とデッサンの学習に取り組みました。

この体験は私にとってかけがえのない財産となりました。写実絵画や彫刻の基本をここで不十分ながら1つ踏みしめることができたのです。

そしてそこから具象絵画、具象彫刻という私の道筋が明確になったのもこの頃からだと思います。それから約37年ロダンやコローと言った画家に目標を常に置きながらひたすらデッサンをして、粘土で彫塑をして油絵を描くといった日常がスタートいたしました。

私はクリスチャンでもありますので信仰生活を同時に続けながら朝は妻とバイブルを読み1日の祝福を主に祈り制作活動を始めるように致しております。

私も60歳の声を聴く頃となりました学習のおさらいとして昨年フィレンチェ2週間ほど滞在してそこからベネチアトスカーナのチェルタッドなどを電車と徒歩での旅を致しました。トスカーナの広大な田園風景の中を一人で歩いていて60歳にしてやっと西洋の絵画や彫刻の奥深さが少し解りかけた自分がいるなと感じました。

平成27年                        5月27日           


1955年神奈川県平塚市に生まれる1978年東京造形大学造系学部美術学科彫刻専攻卒業1983年第18回神奈川県美術展にて大賞を受賞1984年オーストラリア美術賞展銅賞受賞1992年日仏現代美術展にて日本テレビ奨励賞受賞 9日間の女王(すぐ書房出版)の表紙絵担当
2014年 現在現代具象彫刻研究所設立

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 セナンク修道院 南プロバンス

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セナンク修道院
今ではガイドブックで紹介されるほどすっかり有名になったセナンク修道院ですがこの僧院が世界的に有名になり、7月のシーズン中はラベンダー畑のセナンクを一目見ようと観光客が訪れるようになったのは最近の話のようです。実はセナンクはシトー派の修道院だそうです。

シトー派は一時はフランチェスコ派と競う勢いの時がありましたが、今では僧は少なくなり中世の時代建造された修道院はその目的のためには使われなくなり廃屋になったところが近年観光用に入場料をとって公開しているところが多くなってしまっているようです。
そんなセナンクもつい最近まで1988年ごろまで廃屋だったそうです。それを観光目的に復活させたのがラベンダーだったのです。

ラベンダー香りの強いオイルを採取するために南仏では大規模にある地域に限って栽培されていますが、それをこの地に復活させたのかその辺はよくわかりませんが、とっても美しいのです修道院の裏には自家採取のための製油所があるようですが、それはともかくセナンク内も入場料を払えば礼拝堂から回廊まで見学ができるようになっています。

堂内の様子は他のカトリック教会と著しく趣か異なっています。
それは装飾が一切ないということです。絵画はもちろん彫刻や壁の模様すらありません知らないで入るとまるで牢屋にでも迷い込んだようです。窓は狭く礼拝堂の窓に少し茶色いガラスが使われている程度なのです。シトー派の修道僧はよく労働して沼地を干拓して陸地を広げ畑にしたり人が住めるようにしたりして多くの公共事業をやってきたようです。

それに共鳴したのか、かつてアルルに移り住んだオランダ人画家フィンセントファンゴッホがアルルから4キロほど離れた修道院を訪れ数枚の油絵を残しています。

私もアルルに近い修道院を車で訪れましたがその時は私は修道院とは知らずに見学いたしました。
このセナンク修道院も人里離れたすり鉢型の崖の下の底に作られた理由がわかるような気がいたします。中世に建てられたこの僧院では主に野菜や麦といった自給自足できるものを作っていたと想像いたします。

このように働くことを常とした修道会が事実上衰退しひたすら祈りに専念し一日の時間帯に労働を取り入れた修道会フランチェスコ派が現代でも存続しているのはどういうことでしょうか、そこに現代社会にに適応できたできなかった二つの修道院のあり方だ浮き彫りされているように思えました。

人間はある意味非常に欲深い生き物です。動物なら自分の縄張りを守る程度です。また飢えればより食料の豊富な場所へ大移動いたします.

でもある意味において哺乳類と類別できる存在ですが、人間はお金というものを発明してしまってそのお金で自分の未来まで購入できるようになってしまった由一一つの種なのです。この種が地球上ではびこり現代人にになっているわけですが、こうした人類という存在がどこからやってきて今に至っているのかこれからどうなっていくのかそれが知りたいのです。  

ロダンの道        


洋画家   藤井兼好さん律子さん
彫刻家   西川淑雄君
彫刻家   岩野雄三先生
彫刻家   佐藤忠良先生
彫刻家   五十嵐芳三先生
木彫家   伊藤礼太郎先生
彫刻家   西常雄先生
洋画家   井上三綱先生
日本画家  千住博さん
山岸鋳金工房の事
洋画家   上杉吉昭さん
洋画家   五百住乙人先生
洋画家   大和修治さん
日本画家  平出南さん

 

 

 

つずれ織り作家 小酒井基弘君
洋画家  西川正美さん
洋画家  井関周さん陶芸家
 ボヴェ和歌子さん
画家    太田宗平さん
洋画家   住谷重光さん
彫刻家  岩崎順一君
彫刻家 渡辺隆根先生
彫刻家    三木俊治先生彫刻家
整体師   佐野善彦さん
洋画家  佐藤秀人さん
彫刻家      澁谷武美さん
モデルさんの事
コンピュウターアーチスト  アリンさん
ブロンズ物語
小泉アトリエ現在(具象彫刻研究所)
画家 声楽家   三沢史子さん
石膏職人 井野雅文さん
彫刻家 漆畑勇司君
工芸家   大畑道香さん
私とロダン
洋画家  古美術商  伊藤トシハルさん
木口 木版画家  及川泰宏さん
人体彫刻制作の事
佐藤忠良先生の思いで
ロダンの苦脳

 

 

 

 

ロダンの道 
アセンブリーゴット平塚教会牧師  阿部栄子先生
クリスチャンと美術
町田俊之先生 バイブル&アート ミニストリーズ代表
ジョルジュ=ルオー
ムードンのロダン美術館
モデルと画学生
五百住乙人素描集の事
青年の像の制作
手の習作
湯浴み完成
ロダンと花子
彫刻家 藤川勇造
彫刻家 高村光太郎
彫刻家 朝倉文夫
西洋美術絵画彫刻の成り立ち
プロテスタント教会の使命と限界
ロストワックス原型製作
湯浴完成
デザイナー 作家 杉山紀幸さん

 

 


はじめに
多くの方と油絵作品や彫刻作品をとうして貴重な体験を積むことができましたこれらの事を風化させないためにもできるだけ忠実にその方の語られたお言葉に従って書きました。
美術や彫刻に興味がある方は是非お読みいただけたら幸いです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絵筆一本(半世紀)オーギュスト=ロダンへの道      小泉正彦(1955~

油絵を描き始めて40年が過ぎようとしています。その間であった画家について語ろうとおもいます。この方との出会いは洋画家 茂登山東一朗さんの紹介で私のギャラーこまに来られたのが始まりです。それ以来画家の先輩として親しくお付き合いさせていただいております。
●1 洋画家 藤井兼好(1936~)と律子2020さん(1934~2020)
或る日の午後、一人ギャラリーこまで、くつろいでいたら見知らぬ夫人が突然、訪ねて来られて中を見せてください言はれたので、どうぞとお見せしたら、実は茂登山さんの紹介で来ました。言われたのでこの方かと思いました。その後3年が過ぎグループ展西相模美術交流会に招待出品していただきその方の作品からお人柄まで知る関係になりました。
この夫妻は戦後、武蔵野美大卒業から画家として生きて、作品だけで生活をして生計を立てられ また、夫人がデザイン関係のお仕事で家計を助け二人のお子さんを育て上げ自立させ、いま80歳前後となりますが画家として生涯を貫こうとして決意したのは半端では

 

 

ありません、私も時折り、自分の生き方に弱気になるとこの夫妻から教えを乞い行くと、とても励まされ元気になって帰っていく自分を見つけます。
こうした画家オンリーの方の友人に持つととても安心感でみたされます。
友とはたとえ歳離れていてもありがたいものです。

●2 彫刻家(佐藤忠良の教え子)造形大学卒業 西川淑雄(1950~) 新制作協会彫刻部会員
私との関係 同級生と言っても私は18歳、西川君は24歳でしたので髭は伸び言葉ずかいも荒っぽく私なんて小泉と呼び捨てこっちは西川さんて言う次第でした。
私が3年の後半に西森幸恵さんという裸のモデルさんのポーズも西川君が勝手に決め私は初期の重要な作品(あるポーズ)を作り上げますが、西川君は足すらできないで悩んでいる様子でした。
その後銀座で私が29歳の年の時、昭和59年に個展を開催したときに再会いたします。

小泉が絵を描くどういうことだと言って個展会場まで足を運んでくださり、お寿司までくださり感激いたしました。

彼は大学卒業して同大学の研究性になり終了後も経済的にはアルバイトをして生計をたて制作にほとんどの時間費やし新制作協会会員となりようやく作品の依頼も来るようになり作品だけで食べていけるようになったがつかの間、交通事故にあい本人自転車 相手自動車でぶつかり黄金の右腕が思うように動かなくなり、入院精密検査手術リハビリといまは制作できずひたすら療養生活に入ってしまった彼ですが、久しぶりに僕のアトリエを訪れいろいろ苦労話をしていました。
私の作品も見て批評していただきました。彼はこれで貴重な10年を失ったと言っていました。
彼も彫刻にロマンを感じ40年以上生涯を彫刻だけに捧げて生きてきた人です。休んでいる彼を見るのは私もつらいものです。

佐藤忠良にあれほど目をかけられ、かわいがられ
期待されたのに先生に感動させられ喜ばれた作品1点も作れずに苦しみももがく不詳のさん教え子、交通事故で苦しんでいるのを見かねた田村先生が、造形大の後輩や先輩からお金を集めてくれて、その中に佐藤先生も出してくれて合計見舞金30万円も出して励まそうとした仲間や先生の思いやりに感謝すれど期待に応えられない葛藤と苦悩 仲間と先生とは言へ、なかなかできません、皆の思いやりがその金額になりました。

先生も今は亡き人となり残るところはオノレのみそんな彼がやっとのことで高尾山のほとりから歩いてくる姿はまるで。大彫刻家のような感じを思わせました。

そんな彼のアトリエ具現に行ったのは昨年の7月ですから今年5月でまる1年近くたつでしょうか、時のたつのも早いものです。

本日5月14日にブロンズ工場に行った折、帰りにちょいと寄ってきました。

車を寄せると「駐車禁止」などとわめいている西川君がいました。土産にゆで卵を差し出しましたら「こんなもの食べてコレストロールが上がってしまうぞ」と言っていました。

「洋上のヨットの中で、でも牛乳だけ飲んで1年生活したのがいてな、その男が牛乳にビタミンA ~Eまですべて入っているし、十分それだけで生きていけるようだ、」と話してくれました。彼は私にチョコを差し出しましたが私は「もうそんなもの食べないことに決めている」と言ったら、それもキリストの教えかと言っていました。

新制作で初出品受賞、次年度も受賞を決めたある女子が結婚を理由にあっさり彫刻を捨ててしまったお話を伺いました。

「女って恐ろしいものだ」と言っておりました。
今日は制作をやっていましたかと尋ねると、
「コンプレッサ―が壊れてしまって何もできない」と言っていましたので、私がミケランジェロはそんなもの使わなかっただろうと言ったら「アシスタントが5人おってなそいつらがミケランジェロの手足になって働いた」ことを教えてくれました。

 

 

 

書棚から岩野雄三の立派な作品集を見ようとすると「それは触ってはいけない」などと言っていましたが私が作品集を広げてみていると「それがすごいんだ、こんなもの作れる人間はもういない」とか言っていました。解説付きになりました。
  
私も同感で、うなずいてる私がいるのですよ、
それから色々お話を伺いましたが、最後は佐藤忠良で話が終わるのが僕らの共通点です。

昨年7月に御邪魔した時には草が生い茂って見えませんでしたが、たくさんの人体彫刻でアトリエの敷地が埋め尽くされていることに気が付きました。

随分たくさん作ったものです。それがほとんど黒み影なのですよ、こんなに彼もたくさんやってきたのかそれは一人の彫刻家にしてはあまりに過酷な労働です。
ミケランジェロも作品が多いいですが、西川君も数と重さにおいてそれに値するほどあったでしょうかわかりませんが、ともかく石が皆人体の一部で出たり引っ込んだりして、大地がうねっている感じがしました。

 

瑞穂町箱ヶ崎1203にあるブロンズスタジオへ見学がてら行ってきました。そこでは背の高い俳優のような高橋裕二君が女性のスタッフと一緒にいました。
武蔵野美大の黒川さんと共同経営とのことを伺いました。
中には木彫の動物の作品やら青銅で出来た青錆だらけの文化財の品々、今修復中との事、最後に鋳造所を案内してくれました。
そこには今まで見たこともない大きな炉が設置してありました。それを傾けるようにして鋳造することを伺いました。

そこに私の作品(よしひこ)の首を置いてきました。

台座まで黒い石で仕上げてくれるようでした。その作業をやってくれるのが一昨年西相模美術交流展で招待出品となられた吉村サカオさんです。世間はとっても狭いところを行ったり来たりしているのです。

 

 

 


●3 彫刻家 岩野勇三先生 造形大学彫刻科 教授 新制作協会会員

佐藤忠良の1番弟子で写実彫刻の中堅作家として画壇の評価を集めます。彫刻の技法書その他多くの出版物を手掛け第二次世代と期待されました。代表作に坪田譲治像があります。   

岩野先生の最初にお会いしたのは造形大学の人体デッサンの試験会場でのことでした。モデルらしき若い女性がおり先生がポーズを決めるからと言ったらその女性、バスローブをさっと脱ぎ捨て素っ裸になりました。18歳の僕にとってそれは初めての光景でした。
母親の裸しか見たことない私にとってそれはあまりにショッキングな一瞬でした。

でも緊張の走る試験会場では変なこと考えている暇なくひたすらデッサンを致しました。その後大学に現役合格して大学のアトリエでいろいろと姿をしょっちゅう見せるのが岩野先生で私が塑像で細部をヘラで撫でていると「小泉撫でるなよ」と叱られました。

 


先生にはなかなか褒めてもらいませんでしたがアトリエの眼立つところに私の老人の首を置いていたら「これ誰が作ったのだ」と大声で言ったので私ですと申し出たら、「なんだ小泉か」とがっかりしていました。

私の存在は岩野先生にはあまり歓迎されませんでした。と申すのは私は彫刻活動より就職を最優先しているからでした。岩野先生は私より当時、彫刻一筋の高井君を評価していました。彼はその後先生の紹介で東京芸術大学彫刻専攻大学院に進みます。

私が岩野先生に再会したのは銀座での初個展の時でした。先生がやってきて彫刻をやった画家の絵はとても良いなと言ってくれました。その後先生が56歳で肺癌で逝去されその知らせを受けてびっくり致しました。
葬式は豪徳寺で行われ祭壇の前でうろうろしている佐藤忠良がいました。その後西常雄先生もご婦人と一緒に来られご婦人があまりにも美しいので驚きました。

 

 


●4 彫刻家 佐藤忠良先生(1912~2011)

私の師匠ですブロンズ塑像彫刻家日本を代表する世界的な彫刻家です。70歳の後半巴里のロダン美術館から、回顧展を依頼され日本人では初めて国際的なステージで個展開催となった唯一の人です。名作に(群馬の人)東京国立美術館所蔵が、あります。
世界をこの目で見てきた人間小泉正彦が思うのです。ミケランジェロは猛烈に優れていますあんなのは人類史上初めての存在です。佐藤先生もそれに匹敵するものを1個以上作っているのです。

私もかつて大学の木彫刻のアトリエで五十嵐芳三先生からからアドバイス受けました。きみはロダンニズムだねと、この人物の周りの表現がロダンのパンセなど猛烈にうまいのだよ。きみもロダンを参考にしたまえと言われました。

●5 彫刻家 五十嵐芳三先生(1927~) 造形大学教授 新制作協会会員

この五十嵐芳三先生は僕の彫刻が著しく変化するきっかけを作ってくれた大恩人です。私が粘土の習作をモデルを見てやっていると、ちょっぴりわかりかけた私に下手な作品を見てモデルのそんな薄っぺらい胸を写してはダメです。粘土を持ってきて凹凸で胸を強調するのです。
そしてこの面がここへとでて来るのですよ奥行で表すのです。私に衝撃が走りました。

佐藤先生も岩野先生も一切教えてくれなかった彫刻の奥義をこっそり私に教えてくれたからです。

それが解ってしまった人は猛烈にうまくなれるのだよと言っていました。それに答えるかのように私は制作に情熱的になり西森幸恵さんをモデルにあるポーズを完成いたします。
五十嵐先生もそれをご覧になり「わかったな」と一言っていました。実はそれからまた下手になりました。継続的に表現するには私は30年かかると思いました
五十嵐先生はその後銀座資生堂ギャラリーで大規模な回顧展をなさり全貌を拝見いたしましたがこれは全くの偶然銀座を歩いていたら五十嵐芳三展と書いてありましたので立ち寄
ることになりました。

 

先生もわざわざお越しくださり恐縮です。行っていました。やはり初期の抽象作品が妙によいのですやはり写実がしっかりしているからこんな抽象も素晴らしいのだと思いました。
そこに黒川先輩もいました。丁度最終日ということもあって搬出のお手伝いに来ていました君もどうですかと誘われましたが、当時中学の教員をやっておりそれどころではありませんでしたのでお断りして帰ることに致しました。

画家として歩み始めた時に
数年前からパリにわたり何度のそのロダンのパンセを見に行きました。それは偶然に生まれた産物でした。その時彼に発見がありました。そのことにきずくのが今日天才と言われるところです。
現代国際的な具象系の彫刻家はファチュニモ、ももちろんの事グレコ マンズ― に至ってはようやく芸術の血脈を相続した感じであります。
佐藤忠良もそのライバル的存在です。僕は個人的に佐藤先生は懐かしくおふくろさんに再会したような感じです。ミケランジェロは人類史とりわけ西洋文明の終着点にミケランジェロがいるしロダンがいると思って信じているのですから。

それと佐藤先生が私の粘土の習作をお見せしたところ先生がぐるぐる回して先生の手の方に倒れてしまい先生の手の中で壊れてしまいました。すべては私がいけなかったのです。私が芯棒をいい加減にとっつけておいたから、先生は「君の芸術作品を壊してしまい申し訳ない」と優しく謝ってくれました。
その時のお顔を今でもはっきり覚えています。その私のような若者にも1部の利があることを認めて謝ってくれました。なんてお優しい方だと思いこの恩をひたすら作品でお答えしようと思いひたすら頑張りましたそれが玄関にある作品に結晶してゆくのですが、

ある日先生がアトリエを訪れ丁寧に学生の作品を見て回っていました私の番になり先生にお見せしたところ1目2目で先生の目がすんだ眼差しから寂しそうな、悲しい顔お見せになり何も言わずにその場に座り込み首振っているのです。
先生どうかいたしましたかと伺うのもつかの間、去ってお行きになりました。

 

 

 

 


●6 木彫家 伊藤礼太郎先生(1925~2007) 新制作協会会員 造形大学客員教授

先生に出会ったのは木彫教室のことでした。週一回木彫教室にて学生の要請があれば何でも指導してくださるという形で、決して塑像のアトリエには来られませんでした。先生がおられたので先生に私の原型の作品の評価を求めるととっても注意深く見てくださり最後に私にはこんなにできないあなたは私よりうまいです。という返事でした。先生は抽象の木彫を手がけておられます。勿論、具象から出発された方ですがそれで最初で最後となりました。

●7  彫刻家  西常雄先生(1911~2011)多摩美術大学教授 造形大学非常勤講師
それから西常雄先生にお見せしたところアトリエ中をあちこちの角度から見てくださり高い台の上に登られ慎重に見てくれました最後に先生に呼ばれ小泉君作品にとやかくもの言う寸分のくるいももはや見出せません完成いたしました。

あれでいいのです。これからは作品にもっと思い切ったことを表現しなさいと言われました。その時嬉しさは此の上もありませんでした。そして幸子さんの(あるポーズ)が生まれました。
やっとこれで手ぶらで造形大学を後にしないで済む助かったこれで人体彫刻の基礎、などすべてのことをようやくかけらでも持ち帰られると思い将来の希望がつながりましたいつまでも原点に立ち戻れる作品ができたのです。

その時から徐々に彫刻への情熱は薄らいで行きとうとう不安が心を虫始めました。将来の不安です
将来の不安、自立しなければいけないよ、ということです。不安はどんなに覆っても向き向き立ち上ってくるのです。やだな、社会人なんてなりたくない 、でも金もないしともかく稼がねば手っ取り早いのが中学の教員です。
神奈川県教員採用試験に受かってしまえばこちらは叔父の中区の教育委員会に指導主事でいましたから絶好のチャンスです。

 

 

 

この機会逃してはこの教育採用試験合格も意味なさなくなると思いました。

そして秦野西中の村上校長先生が私を指名してくださり無事西中に着任することに決まりました。
その時の村上校長先生が先生一風変わった先生で美術作品にも詳しく国吉などの名前が出てこられました。

●8画家 井上三綱先生(1891~1981)

一級先輩に諸星幸雄という井上三網先生(1891~1981)の弟子ですという国語の先生と親しくなるのです。その方が井上三綱先生と僕を対面さしてくれました。
誠に友はありがたいものです。僕の作品と井上三網先生の前に並べたのですが先生はもうロレツがすでに回らなく筆談での話となりました。

先生は諸星さんにカセットテープを入れされ音楽を僕に聞かせるのです。
彼は3ピーといってピアノ、ピンポン(卓球の事)ピクチャ―と言っておられました。音楽を流して私に聞かせるのです、
すると即興の音楽がながれ始めるのです。そして見せた画が野原に2つの草が二つ並んで咲いているぼんやりしている絵を見せたのです。
すると先生は僕の音楽の方がはっきりしているぞ、言われるのです。何の事かわかりませんでしたがそれから何枚も何枚も先生に順に見せていく中で裸婦の後ろ姿の木炭デッサン、に目を止められこれはよいと言われました。
それから先生の画集で立派な画集拝見賜りましてびっくり致しましたこんな立派な作品を作られる人が小田原にまだ生きて存在しておられること、その後三網先生の訃報を聞きびっくりしたのですが、

ともかく一生に1回しか会えぬ人に僕を導いてくれた諸星さんに感謝するといったところです。
私は私の持ち前の人間関係を駆使してあるホーム内で保母をしている人にお願いしてその方の紹介で澤田美紀(1901~1980)さんを諸星さん田平文子さんとエリザベスサンダースホームにさそい澤田美紀先生に合わせることができました。

 

 

澤田先生は僕らにマリーロ―ランサン教室で描いた作品を見せてくれたのです
マリーが手を入れた作品も拝見いたしました。これが僕にとっての最大のお返しでした。

私はすでに西中学校の教員生活は終了して、すでに平塚養護学校の教諭を致しました。そこに佐藤恵美子さんという憧れの東京芸術大学西洋画科卒業のぱりのぱりの女子教員で芸大の大学院も終了され中根寛教室では油絵を学ばれたとのことでした。そして
教室で学びを終了して当時養護学校の美術の教諭をしておられました。

さぞ相当な天才的デッサンの持ち主かと想像するところでしたが、とうとうそのデッサンは拝見できませんでした。
芸大は私にとって今でもロマンです。あそこから幾多の天才画家を搬出しているのですから。
●9 日本画家 千住博さん
今やお茶の間の大スターにまでなった千住博です。芸大時代に出会いました。私は一本のもちの木に出会いそこから大地に根ざし一本の木のドラマを感じて描くのですがそれが神奈川県美術展で大賞を受賞いたします。
同じ会場に千住博さんがいました。
彼の作品は特選に入っていました彼は芸大日本画家に在籍中で美術展で翌年も受賞して近代美術鑑賞とか取っていました。彼は私にあなたの作品には敬服させられました。今後お付き合いくださいと言っていました。
千住博さん(現京都造形大学学長)の、真理子と言って世界的なバイオリンニスト、弟が作曲家、父親が慶応大学教授で世界的な数学者、お母様は京都の狩野派パトロンの令嬢で教育研究家 という家柄でそれとは知らずに付き合っていました。
彼は東京大学にもコネがあるらしく大作の多くを大学に購入してもらっていました。
その後、ばったり銀座4丁目付近で出会いました。11月寒くなっていく季節 彼はオーバーを着ていました。「実は風邪をこじらせてね、こんな大げさな格好しています。」といっていました。
丁度ギャラリーねこで開催中でしたので個展の事を告げると後で行きますと言っていました。そしてしばらくして彼がやってきました。私の静物画を見て、「この世界がでて来るとは思いもよらなかった。ただし背景の処理が難しいです何かカーテンでもかけているように見えてしまいます。そうだ雲でも描けば空が象徴化する」と言っていました。彼は当時銀座を舞台に都市のビル群をモチーフに幻想的な風景画描き発表活動していました。

 

 

彼の銀座での作品個展を訪ねると3年程、歳で勝っている私の意見を待ちわびた若者というか、そんな彼から結婚式の披露宴招待状が届きましたが、行く気になりませんでしたのでお断りいたしました。
それ以来カタログの礼状が届きましたコイズミさんの世界にストイックなロマンを感じさせます。いわゆる教養人らしい真摯な文面で関心致しました。

●10 山岸鋳金工房の事

小さな裸婦のブロンズ彫刻注文が私にありブロンズ工場を尋ねるのですそこで高橋君と黒川君[現武蔵野美術大学教授彫刻専攻課程]と再会しお土産げにタバコ1カートン持って行ったのですが黒川先輩から煙草をすわないやつが煙草を持ってくるって俺たちに毒もって早く死ねということだよ 言ってさんざん怒られました。
それなら渡さないよともどしたら高橋君が収めて、せっかく持ってきたのだからまあまあ小泉君の好意を受け取ってもらっておこうというのです。
それからブロンズ工場の現場を見せていただき1000度のブロンズの湯をこの砂の湯口まで持って行く作業の過程で手をどんなことがあっても手を離さない相手が必要だということを聞かされました。私が持ち込んだ裸婦は9万円という予算でと言いましたので、それではロストワックスは無理です。砂型で黒川先輩がとってくれることになりました。私自身の原型が下手になっていましたので、ひどい作品ができました。原型は処分致しました。

今ブロンズの大きな首が一体できそれが 倉庫の自動販売機を直撃し大変な損害を出してしまって申し訳ない工場の持ち主と交渉中後に被害者に50万円支払ったと言っていました。
事故の現場でのあわただしいところをちょいと伺い拝見したのですが
そのバカでかい子供の姿の頭部だったでしょうかそれが自動販売機の上に落ち、めちゃくちゃになっている様を拝見する事となりました。

 

 

 

 

●11 洋画家 上杉吉昭さん(1935~)秦野の菖蒲で畑に立つ柿の木をイーゼルを立て描いていると一人の年配の男性が私28歳の私に名刺をくださり上杉ですと名乗られ私も油絵を描いています。よかったらアトリエに寄るようにとお言葉かけていただいたのが始まりです。夕方立ち寄ると広いアトリエに白いキャンバスが大小たくさんおいてありました。上杉さんは丹沢の山々を描く方で山の内部の構造が感じられる油絵が何点か壁に掛けてありました。聞くと若いころ東京芸大の油絵科小磯教室をお出になられたとのことでした。
上杉さんは私と同じようにコローやピサロがお好きで話がとても合いました。その後何回かお邪魔させていただきました。その後上杉さんは単独でピサロが傑作を多数生み出した地ポントワーズにイーゼルを立て油絵を描いてきてブロードウエイ画廊で展覧会を開催されました。その時拝見いたしました。ヨーロッパの乾いた空気を感じる作品郡でした。私も15年後何度もポントワーズ周辺の街オーベルシュルオワーズへ何度も行けるようになり取材いたしました。100年前と今ではこの周辺も都市化が進んで昔ながらの田園風景探すのは難しい状況だとおもいました。今年イタリアのトスカーナ地方を旅した折チェルタッドという中世を思わせる丘の街を登りそこからつずく山稜線に沿って道をたどると中世のまんまの風景が手つかずで残されているのには驚かされました。もう少し昔でしたらここに住み着いてしまいたいと思うほど美しい自然が残されていました。
●12 洋画家 五百住乙人先生(1925年~)立軌会同人
五百住先生の画集出版記念展を銀座セントラル美術館で開催されるということを何かで知りまして、さっそく銀座に出かけてまいりました。
すると大勢の人垣ができておりその対応に1人で対応しているとっても小さな方がおられました。この方こそ有名な五百住先生だと思いました。
早速、受付で購入した先生の画集にサインしてくださいと申し込みました。すると先生は別室の控室で私の名前を墨で書きその次に先生ご自身の名前を書き入れていました。
それから丁重にお礼をして作品を拝見いたしました。平面に透明感溢れる色彩で油彩特有のフラットな処理をペンチングナイフだけで施して濃密な画面作りをされていました。どれもすべて柔らかい光で描かれた人や静物,鳥、少女、彫刻、壺、花など、どれも絵画の中で静かに息をしているような錯覚を覚える程透明感があり立体的で空気が感じられました。これほどの洋画家が現代日本にもおられたか、と思うといつの世もほんの1名の方に美の女神がほほ笑むのか、などと考えました。

 

 

 


それほど素晴らしかったのです。本当に私の心は五百住先生の絵画のことで一杯になり、すっかり先生のファンになっている青年画家小泉正彦がいました。
或る日平塚市梅谷デパートで拝島さんの尽力でグループ展を致しました。5人の中の一人が私で壁5メートル程担当致しました。その時五百住先生が来てくれました。さっそくご挨拶を致しました。先生は30号の冬の木を見てこれはいいねと言ってくださいましたで、先生とこの絵を囲んで写真を撮りました。その後先生のアトリエまでお邪魔しての自分の油彩画2枚見ていただきました。白い広い空間が広がるアトリエでした。日動画廊昭和会賞招待候補のための推薦をしていただくために、結果は残念ながら落選でしたが、
後に西洋南仏取材を終えその成果を発表のため、銀座あかね画廊の個展のおりもわざわざお運びくださり作品を見てくださいました。洋梨を描いた静物に目をとめていただき「これはよい」と言ってくださいました。その後もセントラル美術館の作品展には時折拝見させていただき先生が益々画面の密度を上げておられるのにきずき、とても刺激になりました。小田原の東美でもグループ展されていて拝見できました。とても精力的に作品展をされていました。
●13 洋画家 大和修治さん(1938~)立軌会同人
そこに背の高い画家で大和修二さんがおられ、彼も作品を4~5枚展開しておられました。彼の優しい笑顔が印象に残りました。彼は第3回西相模交流展の招待作家に選ばれS80 号の大きな作品を出品されました大胆な構図、鮮やかな色彩は造形力とともに明らかに私たちの中にあって存在感を発揮していました。とても印象に残りました

それから銀座7丁目でしょうか五百住先生が1階のギャラリーで個展されたのを拝見いたしました。先生がおられましたのでご挨拶致しました。すると私から案内が届いた方ですかと申されたのでさっそくDM をお見せしたらお茶でも、といって若いスタッフの1人が持ってきました。
暫くお茶いただきながら拝見いたしました。とても人間愛に満ちた絵画なのです。それが五百住先生の独創世界でした。個性ということが最晩年に著しくあらわれ、日本画壇を代表している1人の日本人洋画家だと思いました。

 

 

 


●14  日本画家 平出南さん
旧姓小平さんの事、平出さんは私が西中に着任したときの新人五人の一人で平出南さんという日本画家になりました。
加山又造に大学時代指事して中学の美術科教諭として着任いたしました。平出さんの日本画に出会うのは丹沢美術館でのことです。
私が個展しているとなんだか中学の美術教諭をして退職して個展をなさる方がおられると露木順三さんから伺い現在日本画をやっている平出南さんの個展を予定中だとの事、もしかして小平南さんの事か、一瞬、耳を疑いました。
 教育者としてもある意味においで成功され生徒に愛されとりわけ女子生徒にとっても人気のある先生が、なぜ日本画家で転身できるのだろうと一瞬驚きました。やはり加山又造の教え子であり、日本画家になろうとする熱意が半端でなくすごいのです。
これは一つやらかすぞと期待していました。すると個展の出品作150号の半分が展示してありもう半分はこれから描くという(さや野ゆく)150号の完成作が神奈川県美術展で特選に入り、その全体像をいまはっきりとみることができました。

評論家 北澤憲昭氏の文章も加わり一段と立派になりカタログにカラーで掲載されそれ、すがすがしい秋の風を一杯浴びて天空を舞う一匹の蝶に自分の姿を重ねたその絵はとってもあかるい光や風を感じました。

ここまで平出さんもやってきたか、とても涙が止まらなくなりました。それから僕のギャラリーに加山哲也さん(又造の長男)と来ていただき哲也さん飛ぶ鳥を落とす勢いで大手デパート展開ができる方です。又造のカタログやら画集やら頂き恐縮いたしました。

 

 

 

 

 

 

 

 


●15 油絵画家 京都伝統 つずれ織り織り作家 小酒井基弘君
基弘君の絵に出会ったのは、かれこれ3年ほど前、秦野にあるギャラリー、一瞬見てその迷いのない線と色彩の輝きに目を奪われたものです
作者を訪ねるとある障害を持つ体格のいい青年でありました。それ以来たびたび作品を見せて頂きました。
彼は見たり体験したりしたことをいったん記憶し、ある日それらを思い出しながら描くという、描く対象は動物、電車、家、山、海、雲、太陽、どれを描いても、明るい色彩でのびのびしています。最近はその素朴な味から手脱ぐやコーヒーカップの中に描きこまれ世間ですっかり人気者になってしまいました。
一昨日お父様から基弘の絵画やデザインを勝手にコピーできないおように法人化したとのことです。私にはよくわかりませんでしたがいろいろ世間に出て作品が一人歩きしてしまうといろいろあるのでしょう。まったく驚きです。基君の活躍はとどまることを知ら無いようです。
●16  洋画家 西川正美さん
西川さんはフランス帰りの画家として青木画廊で個展を何度もして画廊お抱えの画家としてその頭角を銀座で発揮し始めるのですが
幻想画家としての出発点に青木画廊があったことは今日誰でも知る青木画廊ですからいい出発点であろうと思いました。
その後青木と折り合いがつかず去ることになるのですが
そこは西川さん銀座で一時期、頭角を出した幻想の詩人画家西川正美さんですからロマン溢れるその画面から空気が描かれている。
それもひんやりした幻想の死と生の狭間の抒情詩それもほんのかすかな音がするような絵画を何度もアトリエにお邪して見せていただきました。奥様が道子さんという女子四年大学部の油科の秀才です。
この最近私が高校の美術の非常勤講師25年もお世話になった中央農業高等学校、夏休みに入る前に途中でギブアップしてしまいました。

 

 

 


その後高校の美術の講師を引き継いでいただき誠にやりかけの責任を押し付けてしまって申し訳ない人が奥様です。
ご長男が出版社に勤められ現在の市場と直接、渡り合っている人と伺いあの子供さんがあんなに立派になり成長されたことを思うと次世代の台頭を感じさせられるのですが、とにかく優秀で大学も立派なところを卒業した自慢の息子のようでした。
西川さんの帰りの井関さんの運転する車の中で奥様と仲良く語り合い西川さんの画家人脈の奥の深さを感じました。
今でも銀座や横浜の画商とわたりあっていけるのは 私の友人では西川正美さん位です。

●17 洋画家 井関周さん
本業は古美術修復業をされている方でなんでも壊れ物や傷のあるのを修復できるのは日本でも彼一人くらいかと言われている人です。
そこで彼は毎週京橋の古美術商の所に彼のスタジオできあがった品を国鉄はJR東京行のグリーン席に乗りそれを運びます。
とうとう事務所が京橋に必要となり空き店舗を借り京橋にギャラリーオルテール2年ほど前 開業いたしました。
そこで2回も個展開催させていただくことになりましたが、コレクターという側面を持っている方で私の作品まで購入してくださり恐縮したことがあります。
これ面白いと言って購入してくれたのがマリア像でしょうか、井関さんも画家として幻想的な女性や男性を独自の風景の中に取り込み一種19世紀末のモロー思わせる絵画世界を描いています。

私の個展 銀座教会画廊
銀座で五回目となり始めて貸画廊で自分で決めて開催いたしました。
その時出版物で(白い道鍵そして愛)という画集を友達の協力もあり出版にこぎつけられ二〇〇〇部作りました。山のようなカタログの詰まった団ボウル箱が家に届き家が傾きそうになりました。しかし無料配布しても一向に減らず、ある教会にお頼みして五〇〇冊ほど寄贈いたしました。
その時に駆けつけてくださったキリスト教出版物で有名なすぐ書房の有賀寿先生も来てくださりました。
かつて九日間のイギリス女王レヂイジェングレイの表紙絵を担当させていただき若干、十八歳で首をナタデ切り落とされる手前五分前の死へ向かう少女悲しみの祈りのシーンを描いてくれと頼まれたことがありました。

この時裸のモデルさん細井寿晴さんという日本人女性としては珍しくかわいい方で色白、足も長く、美しいボヂイのもちぬしで、お願いしてポーズをとっていただき実際にどういうしぐさになるのかやっていただき生まれました。着衣でポーズしていただき、それでデッサンができそこからいろいろ服を着ていただき描き、人物を構成して一枚の絵画にいたしました。
有賀先生も納得されデッサンの確かさを感じ取ってくださり今日から君は先生だよと言ってくれました。
その後細井さんにその身体の美しさから何度もアトリエで裸になっていただきデッサンいたしました。彼女は芸大で使われている裸のモデルでとても美しいモデルさんでした。

その時書家の大西心堂さんは女性が全裸で服を脱いだり来たりするのが何とも珍しいのか何度も彼女の方に目をやっていました。また日本画家の本庄典子さんにも来ていただき一緒に描いていただきました。

二人とも今は亡き人になりましたが。典子先生四七歳、心堂さん五七歳で世に旅立ちました。

●18  陶芸家 ボヴェ和歌子さん(1949~
ボヴぇ和歌子さんをモデルにして作ってしまいした。ボヴェさんの簡素で飾り気ない顔立ちを修道女姿で作りました。
その優しいまなざしはとてもシンプルで優しさに満ちた物でしたので作らせていただきました。
国府新宿の杉山さんに見せに行ったらこの方どこかで見たことある人だと気が付いてくださり、ボヴェさんです彼女は若いころイスラエルキブツで働きます。
そこで小野田寛朗さんと出会うことになる冒険に明けくれる冒険家 鈴木紀夫さんに出会いお友達となります、イスラエルでは公用語ヘブライ語、日本語禁止ですから頼もしい友人だったのでしょう
ボヴェこと旧姓田中さんと出会って間もなく小野田さんの出没する旧日本兵と彼のテントで出会い「お前は何者だ、僕日本人ですよ、打たないでください」と必死に命乞いをしてこの男、鈴木紀夫のち「ぼくパンダと雪男を探しに行く」と言いい山で遭難死亡、あっけらかんとした日本最初のフリーターに小野田さんも驚きお前はなんだというところとなり鈴木紀夫も落ち着いて

 

 

叔父ちゃん(かんろう)というのか、バカ(ひろお)だと言って名前を聞きだし写真まで取り日本に持ち帰り兄に確認を取り確かに寛朗だとわかって彼をジャングルから出すには上官の命令が必要だとして直属の上司に来ていただいて武装解除を命令した次第であります。
それから小野田さは無条件降伏し、後フィリピン兵に守られて初めて自分が殺されることなく日本に戻れることを思い知りました。

日本では羽田で閣僚が待ちわび日本中が大騒ぎとなりました。三〇年の長きにわたり戦争をしてきた小野田さん見た光景はあまりにも経済復興を遂げた日本の姿でした。

日本中からお見舞金が、山のよう集まりこれを開くまでもなくすべてを靖国神社の英霊に捧げ、スケジュウルこなして髪も伸び始めすっかり現代人のようになった小野田さんがいるのですよ、
日本の侍として海外からも取りざたされ有名になりました。強い男子として印象に残ったのか「結婚します」という夫人まであらわれ彼はその夫人とともにブラジルに渡るのですが牧場経営に乗り出します2000頭もの牛を飼い肉を売り経営が10年つずけてようやく軌道に乗り日本とブラジルを往復いたします。
そして戦前の日本の中国について知る生き証人としてテレビの前に出る所となりますがそれはともかく彼が最近95歳くらいで老衰で死にました。

日本のために最後まで戦てくれた偉いお軍人さんだと思いました。
ボヴェさんに戻ります彼女は僕に加島祥造の求めないことで開かれる世界のすると何かが変わるという本を紹介してくれました。
暫く読み暫くまた読むうちにこころのせかいが楽になりましたこんなにも人に見返りを求める自分がいることにおどろきました。
イスラエルの4つのダビデの星で装丁された美しい本でした

 


 
         

 


●19 画家 太田宗平
僕に太田宗平の事も教えてくれました。彼は牛乳パックの紙から作品を細密に仕上げて抽象の世界を作ります。一生独身主義で終えるつもりですから、アパートで制作活動をやっている人です。
一度小田原の新九郎の二人個展で絵を見せていただいた折、初めてボヴェさんと出会いました。彼女はヘビースモウカーの人です。「煙草のニコチンと一緒に死ぬわ」 といったのは驚きです。

帰りに暗くなったアトリエの外で優しく見送ってくれた彼女のまなざしが印象的でした。私より6歳年上の姉御さんという感じでいつも優しく見守ってくれています。
フィレンチェの話を聞いてくれてありがとうボヴェさんということです

彼女はデンマーク人と結婚して三人の子供をもうけますがすべて成人してハーフで白人顔で骨格も鋭く、まんなかは世田谷美術館でなどでダンサーなどしている人です。ご主人とは陶芸家になるために離婚されました。

 
●20洋画家 住谷重光さん(1950~

始めてお会いしたのは小田原の市民会館相模美術交流会のグループ展折です。そこに多くの会員の人の中にお一人住谷さんがおられました。見かけは小柄な方でしたが日焼けして茶色い顔をしておられました。住谷ですと自己紹介されたのでカタログをⅠ冊差し上げて去りました。翌年私が招待作家に選ばれましたので第3回目から出品できるようになりました。
その後4回5回と作品を並べるようになりました。私の隣が住谷さんの抽象作品でした。かれは午前中は写実の水彩で風景や静物を描き午後抽象の油彩を描く方で夜は音楽や読書をして毎日過ごされている人です。
それ以来、親しくしていただき毎年のギャラリー0での個展、藤原画廊での回顧展などこれからも勢力的に自己を磨いて作品を作っている人です。
覚書 裸眼の絵画から引用(ものを前にして描く。ものから離れて描くという2つの方向から仕事をしているが、その核は自然の流れと呼応して描くことなので、いつかぴったりと重なってくると思っている。)と語っておられます。

 

 


かれの世界の個展会場には入るとまるで修道院の礼拝堂の中にいるような清らかさ美しさ白い透明感の世界に導かれ魂が癒される感じでありました。
何と誠実で知性に満ちた世界が表現できるのだろうと思いました。

●21  彫刻家 岩崎順一君(1956~) 

岩崎順一君は富山から上京1路佐藤忠良先生のアトリエに向かいます。先生に会い弟子にしてくださいと申し込みます。先生は弟子は取らない大学に入学してくださいと言われます。
そして受験合格私と造形大学で同級生です。彼は数少ない現役合格者で年代も一緒です。彼と出会ったのは大学の石切り場でのことです。
同大学は彫刻専攻の学生だけに大きな石から四角柱を掘り出す授業からスタートいたします。大きな粗削りな石を藁と豆楔を使って簡単に割ることからスタートいたします。
その粗削りで丸みを帯びた石を鉄ノミとハンマーだけで正確にお墓の石のように美しく直方体にして鏡面仕上げまでして完成させるのです。
この作業には私とっても苦労致しました。
調子よくハトンボというハンマーで削っていると必ず角が欠けてしまい、またやり直し次第に大きかった私の石はみるみる小さくなりました。

やっとのことで6面出たと思って差し金を当てると90度が出ていません。
もうやり直しはごめんです。これで提出致しました成績は最下位でありました。
ところが岩崎君の石の石柱は見事なのです。正確に差し金当ててもぴったり90度が出ていましたし、石の表面も鏡面仕上げが完ぺきにできていました。
水を打ったような美しさで輝いていました。その彼と4年間同じアトリエで制作を致しました。彼は富山県出身で今でも富山弁が取れずにいます。
そんな彼に再開したのは佐藤忠良先生を偲ぶ会のことでした。若いころとほとんど変わりがない岩崎君がそこにいました。
その後私の京橋の個展に来てくださり親しく語らいの時がありました。岩崎君は新宿区から石彫のモニュメントの制作を依頼され 、職場を退職して四国まで行って石を彫り上げ新宿の広場に設置致しました。
彼の作品は流れるような曲線美と大理石の模様がまじりあい美しいバロック音楽でも聞いているような感じがいたします

 

 

彼しかやりえない抽象彫刻の新しい世界を切り開きつつあります。
その後今年に入り東京都美術館の第7回現代日本彫刻作家展作品を拝見いたしました。
彼は今頑張っています。とっても燃えといますそんな彼と出会うのは楽しいものです。彼

●22  渡辺隆根 先生(1939~2012)新制作協会会員

は渡辺隆根(1939~2012)先生からアドバイスを受けました。
そして渡辺先生からグループ展の招待を受けます。かれはそこで急成長を遂げました。渡辺先生は大学ではもっぱらご自身の作品作りに明け暮れていました。その制作活動の合間に学生、特に1年生の制作をもっぱら批判に来るといった感じでした。
無口で何を言っておられるのかはっきりわかりませんでしたが1年生の私にとっては貴重なご意見でした
。先生は新制作を活動の舞台としてもっぱら石による抽象彫刻です。御影石を美しい形状に仕上げ黒光りするまで磨き上げた作品(東京造形大学臓)は最近相模原校舎になって初めて拝見いたしました。
とてもモダンで軽やかな気品を漂わせた作品だと思いました。
昨年、相模原に移転した東京造形大学に行ってきました。私が学んだ八王子校舎はもう跡形もなく整地されているとのことでした。
新しい校舎相模原のものはマンズー美術館が設置されており、その外には佐藤忠良の作品(リン)が設置されていました。
当然彫刻準備室に向かうと外で石膏とりを、している初老の婦人を見かけました。勿論学生ではありません
この方こそ宇多花織(1961~)新制作協会員さんでした。その時は全然知りませんでしたが、第7回現代日本彫刻作家展で作品を直に見てその面の取り方細部の処理、ポーズの決め方と言い岩野雄三を思わせる作品でした。
やはりここでも女性が活躍しています。彼女はまだ独身だそうです彫刻と結婚してしまったのでしょうか、ここまで彫刻を作れる人もだいぶ今日少なくなってしまいました。
彼女は現在造形大学の彫刻科の非常勤講師をしています。制作も学生に交じってやっているようです。彫刻家は大変ですなぜならまずアトリエが必要です。それに裸のモデルがポーズできるほどの広さを持ったスペースが必要です

 

 


天井もある程度高くなくてはいけません。広さは最低でも20畳は必要です。東京でその広さを確保するには費用も莫大になります。
それで大学4年すると終了すると家かアパート暮らしが待っています。アパートでは彫刻はできません、そこでスタジオを借りるのですが1人では費用が嵩み維持できませんのでグループで製作所借りることになります。
その例が天才塾です。日本中に具象の指導者がいるところに人が集まりその中から立派な作品が等身大で出来るようになって独立して自分のアトリエを持つという手順になっているようです。
簡単にことは運びません、昔ながらの師弟関係が大学という形にかわっただけのことです。

ですから学生は誰を先生に選ぶかによっても作風も考え方も変わってしまうのです。

ですからこれから彫刻でも絵画でもやろうと思う人は決して大学で選んではいけませんそこで誰が主になって教えているか十分考えて自分の好きな作風の人が教える大学を選ばなくてはいけません、
それが解ったらあとはあなたの努力次第で将来60歳くらいになったらわかる時が来ると思います。
それまでざっと35年のした済み時代をどう切り抜けるかです。

間違っても地方の大学の講師とかなってはいけません彫刻家は少なくとも東京まで1時間半の範囲にいなければなかなか交流ができません。
ですからこの私も中郡大礒町高麗に踏みとどまっています。同じ高麗2丁目に安田春彦先生のアトリエがあります。
世代工房といいます。そこでは多くの抽象作品が作られたようですが、私とは師弟関係になりませんでしたので、よくわかりません。
さて話は飛びましたが、彫刻の準備室に田村史郎先生がいました。彼は私の時代では助手をしていましたが、新制作で認められ会員になられ現在造形大学の主任教授をしておられます。

 

 

 

 

懐かしい人に会いました僕の事を思い出してくれました。大学の準備室でお茶を頂きながら昔話を致しました。三木も来るから待っておれと言われましたが、その場を立ち去りました。もう懐かしい面影は造形の校舎にはなく別世界が展開されているという感じでした。ちょっぴり失望いたしました。
さて気を取り直してと私は1987年、新制作展の絵画部ですが1回出品して入選を果たしました。その年のオープニングパーチイーに出ました。
まだ小磯先生は存命中でしたが、会には出られず作品もアトリエの窓から描いたような風景画小品が出ていました。
創立会員、では猪熊源一郎先生が会場におられました。新入選者は回れ右して猪熊先生にきょうつけ礼致しました20人ぐらいいましたでしょうかそののなかの一人でした。こんな窮屈なところやだなーと思い1回こりごりとおもいました。

すると数日たって読売新聞の文化欄に君の新制作展での寸評が出てたぞという情報が入りました。(今年の新制作展ではミクロ的な視点でとらえた小泉正彦の作品が注目された)と多くの会員の先生方や長年出品されている会友の方や一般入選者およそ150号の大作200点の中から先生方を差し置いて、私が一人取り上げられたのです。
やっぱりよく見ている人がいると思いました。その記事を読んだか読まなかったのかわかりませんが
たまたま日本一の公募団体が新制作であると知り自分の2億円建売住宅販売している社長から、電話があり君の絵はいったいいくらで譲ってくれるのですか、と問い合わせがあり400万円ですと言ったらそれは高すぎるな、まあ事務所に来てくださいとのこと、

3時間待たされやっと来られた社長がキャシュで200万円の札束を私によこしこれだけでよいか
というので承諾致しました。
現金を紙の袋に入れて夜、夜中の電車に乗り帰宅いたしました。ただし新制作展に出した額あれは剥げているではないか、50万円クラスの額に入れろとのことでした。

 

 

 

 

事務所には届けてないから、とまで言われましたが、新制作の事務所に私が報告して、しばらくたって手紙が届きました。
誠に会員でもない外部の人からお金を取るのは恐縮ですが新制作は貧乏でいまだかつて絵が会場で売れたことがありません前例のないことです。
がやっぱり規定どうり20%いただきますと言われたので送金いたしました。
そしたら佐藤忠良のブロンズ像が届きました。事務所にあったもので恐縮ですがこれを受け取りくださいとのことでした。
新制作のバッチまでいただきました。それから佐藤先生に一部始終を手紙でお知らせすると、先生から手紙が返ってきました。

私としてはもうこりごりと思いました。
この時私は聾学校の中学部の美術の教諭をしていましたが、こんなことで人生を無駄にしたくはない、自分は画家として生きることを決意いたしました年明けに校長に辞表を出しましたそしたら2週間後またうかがうからそれからにしてください、と言われました。
また3週間後同じように辞表を申し出ると今度は後戻りできませんよと言われました。

そして昭和63年私33歳の時に10年務めた公務員を退職いたしました。
生活できる収入の当てもなく、これからのんびりと制作に励むかと思っていたら退職3日前千葉さんという銀座に事務所を持っている方から電話があり先生の絵画を購入したいのですがまだ教員はやっているのですか、
という電話、いいえもうやめました。
というと今度銀座でお食事でもして最近の状況についてお伺いしたいのですがと言われたので、私は快く了解いたしました。

銀座に出てみたら千葉さんの事務所に案内され6階の小さな村木ビルで、僕の会社の従業員ということで毎月給料振り込んで下さるという約束をしてくれました。
しかも私は家で絵を描いていて結構ですというのです。この千葉さんとの関係は10年程つず来ます。
ひと月10万円の収入はとても当時としてはありがたかったものです

 

 

 

退職と同時に高等学校の非常勤講師の口を頼んでおきましたので2校与えられました。一校は平塚農業高校もう一校は中央農業高校です、合わせて10時間12万円程毎月振り込まれました。これもありがたかったです。
当時高校は今程あれてなくまじめな生徒が多かったようです。ところが最近は大変になりましたので27年務めた高校は全て退職いたしました。
いまから25年ほど前
こうした画家生活を主にする生活をスタートさせて1~2年程たった後
古川さんという人から美大受験校の指導をお願いできないか言われてたのでびっくるり致しました。東京芸大卒でもない私にとっては夢のようなお話でした。
当時平塚アカデミーといって平塚に唯一ある美術大学を受験指導できる研究所でした。平塚アカデミーの歴史については別の機会にお話しいたします。

●23 彫刻家三木俊治先生(1945~)

ところがここで造形大学彫刻科の三木先生をお呼びして講演会を主催致しました。佐藤忠良のお話やヨーロッパ縦断旅行のお話を伺うことができました。

先生はミケランジェロロダンブールデル、マイヨール、デスピオ、荻原守衛佐藤忠良につながる一本の彫刻の流れがある。
御話とそれからはずれることになった御自身の作品について講演されました。佐藤忠良先生の否定的な推薦文も読まれ正直に御話されました。

きびしい推薦文だと思いました。最後に先生を囲んで飲み屋で乾杯を致しました。先生はこの年中原悌二朗賞を獲得して笹戸千寿子さんと並びました。具象彫刻の権威ある賞です。新聞で大きく取りあげられているのが目に残っています。だいぶ昔の話となりました。

その後10年ほどして私もレンタカーでヨーロッパを縦断いたしました。
ポルトガルの大西洋に出た時断崖絶壁には驚きました。ここにはアフリカのサハラ砂漠も海の向こうにあるようできれいな砂が風で運ばれ堆積されているところを発見するのですが、ともかく先生と同じ体験を致しました。それはともかく

 

 

 

この平塚アカデミーでは、版画家の浜西さんや佐野さんに出会いました。そして倉橋さん露木順三さん(現秦野市議会議員)に出会いました。
彼は毎日現代展にも入選歴のある方でお仕事は水道屋さんをしていました。

当時からご自分の一部屋トイレ付の空間を丹沢美術館と称して多くの画家や版画家が集まり決起式をやっていました。それ以来のお付き合いですから24年になるでしょうか長いお付き合いの人です。
現在の街中の寿町のご飯屋さんの二階、丹沢美術館で6回ほど個展をやらしていただきました。彼がこうしたことをやっててくれたので私は随分励まされ制作意欲もわき楽しい個展活動ができました。世の中にこういう人がいなければ僕らは真っ暗です。
後に市議会議員になってご立派になられても僕らの友情は永久に消えないと思います。
私もそこで個展を開催させていただきました。
作品もこれは面白いと言って随分買って頂きました。とても私にとってありがたい人です。

丹沢美術館が正式にスタートして10年は立ったでしょうか多くの人々が集まり大きな文化芸術演劇の一つの中心にまで成長できたのは館長の露木さんの血の出るような努力と忍耐、
資金投資がなければ成り立ちません。これからも陰ながら応援していきたいと思います。

版画家がここには不思議と集まっています。小清水量三さんリトグラフ工房を経営しておられます。松永ゆかりさん銅版画(エッチング)、竹村健さん(板目木版画,木口木版
浜西勝則さん(メゾチント)牧島さん(シルクスクリーン版画)という具合にすべての版画の技法のテクニックを知り尽くしたメンバーです。
しかし丹沢美術館も高齢化しているようです次世代の下川大輔さん、志村のどかさんなど若い世代に希望を託したいものです

 

 

 

 

 

●24 彫刻家 佐野嘉彦さん(1954~)(現在大井松田東名インター付近にセラピー開業)

アカデミーで出会った中でも佐野さんととても仲良しになりました。佐野さんはロサンゼルスで長いこと新聞社でコラムなどを書くお仕事をしておりました。そして帰国アカデミーに人体デッサンに来ていました。イサム野口に感化され植物とも動物とも取れない不思議なイメージを与える抽象彫刻を木やFRPで制作していました。
1時期大理石にチャレンジしていることもありました。

私は彼と彼の運転する車で栃木県の方まで出かけ突然の大雪で前が見えなくなり危うく遭難かと思って車の中で待機していたら遠くの方から除雪車来て我々を無事救出してくれました。その後ホテルに泊まり。
次の宿、明治以来の鹿鳴館を思わせる建物が大浴場で混浴となっておりました。入っていると女風呂があるにもかかわらず、5人ばかりの結婚前の女子グループがなんと手拭いを頭にのせ入ってきました。
裸を見るのは日常的ですから特に興味は起きませんでしたが、早々に風呂から上がり出ることに致しました。まったくこれでは色気も何もありません、


それから川で欅の大木を車に運び入れるのを手伝いましたがこんなに重いものを持ったのは初めてでした。私はここで一本の木に出会いスケッチを重ねましたその後その作品がセントラル油絵大賞展で入選いたします。
桜井孝美さんが大賞に入っていました。その年銀座地球堂画廊から個展の企画が入り開催にこぎつけました。
ギャラリーのオーナ 田辺ヨシさんと出会ったのもこの時です。画廊に佐藤忠良も笹戸千鶴子さんと来てくださいました。なかなかいいなと冬の栃木の木を褒めてくださいました。
新制作の高岸昇先生も来てくれました。立葵の花を描いた50号の作品を見て「自分を決めてはいけませんそらその花はいいよ」と言ってくれました。その後深尾庄介先生も見えられ「君、絵画にいたっけ私は彫刻専攻ですと申したら知らないわけだ、青木敏郎も南瓜を描いてたっけな」と言ってくれました。

 

 

 


今日は漆工芸三島先生にFRPによる型取りの技法を電話でしたが伺いました。FRPはボートの素材としても使われその強度と軽さでは絶大な信頼があるとのことでした。欠点は紫外線に弱いということでした。
私がそれで原型の型取りをしたいと申し出たら大きさを尋ねられたので立つと4メートルもなる人物像ですと言ったらさすがに驚いておられました。実現できそうもありませんでしたが、

FRPは硬化してしまえば無臭ですが、硬化し始めるときに毒ガスが出るという恐ろしいものだそうです。
私にはとうてい取り扱いできません、私は石膏で取ろうとおもいます。
私自身ロイヤルホームセンタ―の広い空間でも気持ちが悪くなるほど科学物質過敏症になっている自分がいることに気が付きます。
夕方は私の父92歳、母87歳の老人介護に4時間ほど致しますが、新築の医院で気持ちが悪くなってしまいました。
なぜかどこも靴を脱がされスリッパに履き替えるのですが、高齢者に靴を履かせるのも靴を脱がせるのも介護が必要で大変苦労致します。
日本の医療機関もまだまだです。早くちまたの街医者も西洋式を取り入れていただきたいものです。バリヤフリーを何ともやっていただきたいと思うのです。まだ50年はかかるかなという感じです。
私のアトリエも20畳ほどはあるでしょうか、床セメントが理想なのですが今、添田工務店さんの長男の方と交渉中です。すべて床を取り鉄筋にコンクリートにしたいのですが、なかなか地震の多い日本の木造建築でうまく行くでしょうか、それが問題です。

明日1級建築士の免許持っている友人岩本弘道君に電話をかけて来てもらうことに致したいと思います。
今宵はもう深夜1時ですが、長男の恵一がここにいます。明日から銀座で個展との事まだまだです。
恵一にギリシャ彫刻やルネッサンス彫刻の実物大のレプリカを見せていろいろと語り合いましたが何にもわかっておりませんまったく残念です。

 

 


20年かかってもよいですからデッサンを完成しろ、と言いカルトンをプレゼントいたしました。
さあガッタメラッタに挑戦です。「がんばれおい恵一」、このアトリエには4人程の女子が、デッサンに通って来ています。とても熱心ですが私よりもすべて歳が上というのが残念です。一人は加藤廸余さんと言って、もう足かけ3年になりますが足柄から通って来ています。
すべての画家や彫刻家は彼女らに見習えと言いたいのですが、すぐ芸大だの美大だのと言うところの教授になってしまい学ばなくなってしまうのです。

それでだめになる。こうした現実が日本にはあるのですよ、
まことに残念ですが、いつまでたっても世界で通用する作家彫刻家画家が育たないのです。

私の造形大学時代の一級上に武蔵野美大教授と東京芸術大学副学長がいますが、一人は黒川さん一人は北郷悟さんと言いましたっけ、二人とも独自の鋳造技術を武器に出世したものです
忠良先生のような写実彫刻はやっていませんが、こうした人々が日本の2大美術学校にいるのですから大したものです。
それに比べて東京造形大学の9回生までは誠によかった佐藤忠良が2週に一回
西先生が同じく2週に一回交互に来て下さるのですから、
私ほど先生から学びつくした学生もいませんそのことを直接私が語ると佐藤忠良先生は「君のような学生は10年に一人だよ」と言ってくださいました。そして「時々このような爺の所に生きて話を聞かなきゃ、だめだ小泉君そうだろ、はい」と申したら、「なんだか仮ができちまったな」と言っていました。

 

 

 

 

 

 

25 画家 佐藤秀人さん(1948~)
私が腰痛で整骨院に行ってるとき佐藤秀人さんという画家が花水に住んでおられることをそのパンフレットにて知ります。・
その後佐藤さんがアクリル絵の具について教えていただきたいと言われ知るところとなりました。彼は固有のキャンバス地を作りだしそれにおつゆがけするように描いてゆきます。
最初はカジュラホの石彫を得意として描いていましたそれから川や寺院風景と言ったものが主になってゆきますがインドの女性を描いたものにとても良い作品を見出します。
行くといつも明るい陽気で前向きな秀人さんが迎えてくれます。応接間はインドの土産物で飾っています。
数々の品々に隠れて秀人さんの少女像が目に入ります。彼は現在そごう系のデパートで個展開催して実績ある作品展ができる人です。
この間アイルランドにご夫妻で行かれそこからメールを頂いたことがあります。インドの幻想から北欧の神秘を描き分けられる人です。細密な画面からは空気とも光とも取れる気配が伝わってきます。やはり濃密な画面のみから伝わってくる固有の味わいと言いましょうか独特なマチエールですべてを佐藤秀人の世界にしてしまうのです。
私もかつて学びに行きました。ところが彼の世界はあまりに深いのでどこからか解らなくなってしまいます。
奥様は小顔で美しい顔立ちをしておられいつも表情がありませんが英語をしゃべることができるのです。これで世界中を旅して歩けるようです。
●26 彫刻家 澁谷武美さん(1941~)
これから4人の画家や彫刻家たちとのグループが出来上がり展覧会を予定しています
その中に彫刻家澁谷武美さんがおられます、数々のブロンズの裸婦像を手掛けてきた貴重な彫刻家です。
この方は若いころ円鍔覚三に指事して日本画壇で有名になられました。と或る日この方のアトリエを拝見させていただいたのですが、窓がなく狭く何か洞窟の中に入ったような感じでしたが石膏の裸婦像の多いこと全く何か異次元空間に迷い込んでしまったような印象を受けました。
アトリエの外へ出ると太陽がまぶしく海の風波の音がしてきそうな、明るさで我に返りアトリエを後にいたしました。

 

 


その方と同年輩か澤氏さん藤井さん茂登山さんらと私含めて5人展が予定されています。
その中では私一人が昭和30年代生まれで若者です。

もう58歳になりますが、なんという高齢化でしょうギャラリー新九郎では木下さんが新九郎通信を作ってくださり私たちの作品写真やら私たちの言葉の載ったA4の裏表の印刷物が一昨日届きました。
ポストカードからすべて引き受けてくださりアナログ世代の私にとってとってもありがたい存在と言えます。

●27 モデルさんの事

たいてい上野にある北村モデル紹介所から派遣されてくる方が、モデル台の上で立ってくださり色々とポーズをとっていただき作品の大枠が決まってしまいます。

だからモデルさんであれば誰でもよいという訳にはいきません、そこで美しい肉体の持ち主、例えばバレー教室で常に肉体を鍛えているバレリーナやアトリエで全裸になって男性や女性の視線を浴びたいと望んでいる人やとにかく女性独特の露出狂の人がいいモデルさんかも知れません
人間には露出願望というのがあるようです。とりわけ女性に多いいのです。見られて恥ずかしいんだったらそんな服装初めからしなければいいのだと思うのですが、それが顕著にモデルをやることで満足している女性がいるのです。本当です
ところが日本人女性は恥しいんだか、例えば、ちっとも足を大胆に開くポーズはやってくれません、それで注文を出すとそんな恥ずかしい恰好で来ませんと言って逃げられてしまうのが落ちですから、
彼女がどうポーズするのかこちらは待つしかないのです。
それにしても日本人女性の裸体の99パーセントの人が貧弱でみすぼらしく見るに堪えせん 
その1パーセントの人を探し出すのがこれ容易でないのです。
美しい肉体の女性は日本人ですと女優さんの松坂恵子さん賠償千恵子さんそして吉永小百合さんでしょうか彼女らはもう70歳のバーさんです。

 

 

 

そんな南瓜の腐ったような肉体は見るに堪えません 若い30歳ぐらいの肉体の女性を求めますが、なかなか美しい人ってすぐ結婚してしまっておさらばしてしまいます。
これが具象彫刻家の悩みの種です。美しい肉体をいつまでも37歳くらいまで独身でいてくれてボヂイラインが崩れていない人を探すのは至難の業です。

佐藤忠良先生クラスになるとお金も有り余ってきて1000人2000人の中から一人選び出してモデルになっていただくことができるでしょうが、
先生もそれを実現できるようになったのは70歳を過ぎてからの事だと記憶しています。まったくですから先生も
私が学生時代の頃学生が使っている女子をモデルに呼んで出しまい頭大きい裸婦を作られておりました。

私の卒業制作(あるポーズ)を見てから

小泉正彦のいるアトリエには一切来なくなってしまったのです。不思議と先生とは私が銀座で個展するときまで再会いたしませんでした。

佐藤忠良先生も97歳で老衰で死んでしまって、もう誰にも見せられる人はいませんが最大の理解者がお亡くなりになり私は58歳にして彫刻家一筋で行こうと固く決意いたしました。
明日はブロンズ鋳造家の高橋裕二君の所に行きます。
或る日ギャラリーこまで人の個展を開催していたら原田君とアリンがやってきましたその後何回か私のアトリエに遊びに来るようになりました。
●28 コンピュウターアーチスト アリンさん

私より6歳ほど年長かと思われます。コンピュウターを駆使して女性の裸体像をたくさん描きます。彼は身体障害者です足がうまく動かないのか杖を使っています。その作品が紙に描くそうですが、その数が半端ではありません。2千点3千点作りUSBメモリーに入ってしますのです。今週の金曜日にアリンさんに会いに行く予定です。鶴巻のアパート経営をされている方で、東海大学の学生が使っているようです。ですから回転が速くそのたびに人が入れ替わりますようなので、彼は住所を3か所も持っておられます。

 

 

彼もパソコンを使い作品を保管して実物は処分されるようですからこんなに小さな収蔵庫はほかにはありません。とにかく彼は時代の最先端技術を駆使しておられるようでどこでもパソコンがあれば作品を見せることができるのです。
きっとこれからはこういう形が主流になるかなと思わせるほど彼の作品は簡単に見せに行く事が出来てしまうのです最近麻痺がひどくなり自動車に乗れなくなったというのです誠に心配です。

これで私は洋画はおさらばです。
来年から石膏の人体や首といったものが出品されると思います。友人の高校の同級生で真壁茂君に言ったら自然な流れじゃないのと言ってくれました。貴重な友です。私にとっては
とうとう朝5時まで時間がたってしまい薄明るくなってきました。もう今日も十文創作したのでもう寝ようと思います。日本で一人フィレンチェにいるようです。私の時間が戻ってきました。さあこれから制作です。

●29 ブロンズ物語

彫刻家なら1度は自分の作品をブロンズに鋳造してみたいと思うものです。
ところが鋳物屋さんに頼むとこれが莫大な額になります。首一つでざっと20万かかってしまいます。
そこで売れるのを待って鋳造するのですが、そのお値段に皆びっくりしてしまってほとんど頼む人はいません。
作品の値段の90パーセントがこの鋳物屋さんの支払いになってしまうのです。
そこで誰でも彫刻家なら思うのです。自分で鋳造できないかな、でもそれを実現するには多くの設備がいります。
鋳造の技術者が必要です。人手が入りますそこで私は古川さんと話し合い佐野さんと高校の先生含めて4人で鋳造することに決めました。

材料集めは当時画材商を営んでいた古川さんの奥さんが引き受けてくださり、ロストワックスの調合から始めました。

そして原型つくり初めは水粘土で作ります。できた物に石膏を振りかけて女型をとります。その女型から今度は石膏を流し込み原型の完成です。

 

 

その原型から今度はまたブロンズ用の女型を作ります。昔はここが難しかったのです。すべて女型を石膏で作りましたから、様々なパーツで組あわされた石膏の女型はとても複雑になりました。

現代ではシリコン樹脂と言うものがありますので型取りは簡単ですが、シリコンの性質を熟知していなければこの作業はできません。

シリコンと石膏の複合体女型ができたら今度はそこにワックスを流し込みブロンズの厚さ程にいたします。

そしてまたそれを半分に割り、中に銅釘をたくさん打ち込みます。それが終わったら今度はなかごと言って饅頭の餡子のような部分を作る作業に移ります。

饅頭の餡子は石膏で作ります。それを二つにしたものを結合させます。
外側のシリコンの女型を丁寧に外せば、蠟原型が出現致します。

出現した蠟原型に今度は釘を多数うち湯道をつけますそれらを覆うように耐火石膏で外型を作ります。湯道の取り付けかたによって外型の大きさが決まってきます。それができたら今度はそれをゆっくり焼成して1000度まで温度を上げてゆきます。

ゆっくりと35時間ほどかけて、徐々に上げてゆきます。そこが大変なのです。少しでも蠟が残っていたらブロンズを流し込んだ時に爆発してしまいます。
ですから1000度を十分保ち蠟を完全に飛ばさなければなりません、900度から1000度を保つには容易ではないのですよ、そして完全に蠟がなくなり湯道が現れれば後は湯を注ぐだけです。湯はもちろん青銅が溶けたものを言います。

青銅は約1000度で液体化致しますので、炉によって溶けた湯を湯道の入口に落として流し込み上がりを待ちます。上がったらそれが自然に冷えるのを待ち割り出します。
すると青銅のものが出現致します。

 

 

 


それらは黄金色になっています湯道もブロンズとなり多くのバリの中に原型が眠っている感じであります。そのバリをきれいに今度は削り取る作業が待っています。

すっきり取れたら着色です。ブロンズは青銅色、茶色、黒などに腐食させ色つけで来ます。石の台座も必要です。

●30 小泉アトリエの事(現代具象彫刻研究所)
私のアトリエは大磯高麗にあります同じ高麗2丁目には安田春彦先生の世代工房があります。隣近所なので何かありましたら飛んでゆくつもりです。私のアトリエには様々な人々が訪れるようになりました。
看板やの杉山さん明日9時に来ると言っていました。
建築家の岩本さん画家のアリンさんなど職種はバラエチイに富んでいます。

今日は下川大輔さんそして彼女と一緒にやってきました。アトリエがかなり変化しており「作業所のようになってしまいましたね、」と言っていました。さて電話での話ですと石膏とりのアシスタントと言っておきましたのですっかりそのようなことをするのかなと思いやってこられました。実は下川さんに重たいものを運ぶ時に、1緒に持ってもらいたいなどと、とっても簡単な作業と思ってそんなんで僕を雇ってくれるのですか、と驚いていました。
やっていただけますかと尋ねるとはいと了解してくれましたので。4時からさっそくアシスタントとしてたった1時間ですが時給900円のアルバイトをスタートしました。下にあるボードを運んで6枚運んでいただきました。さすがに重いのでひいひいしてました。
あまりにも汗が出たので少し休憩をはさんで私の回転機とアングルの組み立てを手伝ってもらいました。
彼女の村田さんが参入してきてしまったので、村田さんはただ見ているだけにしていただけますかと申したら3階に上がりそこから見下ろしてくれていました。写真などもとっていました。最後の私がヂスクサンダーでボルトねじをカットしてあっという間に5時になってしまいました。

 

 

 

 

約束の900円を支払うと初月給だなどと喜ぶ青年画家下川さんがいるのですよ、彼は父親の所有する車で彼女村田さんを小田原まで送って行きながら帰られました。彼も40歳を過ぎた方です。美術を勉強しながらお金もらえるとはなど言っていました。若い人が必要です。こういう人もう二人ほど私には必要です。もう深夜の3時です。このところ私を取り囲んでいる周囲の人がすべて私より年上であったことに気が付きました。どうしても年配の人と付き合ってしまう傾向にあります。

倉橋さんもその一人です彼とは24年前、美術研究所平塚アカデミーで知り合いました。
倉橋元治さん本業は町の木こり屋さんですが、芸術家としても活躍しています。1番の特徴は人物や動物、天使とか言ったものをクスノキの大木などチェンソで切り刻み形を出してゆくのですが写実主義とは真逆な表現で1時期、

岡本太郎に注目されたことがありました。木刻フェスチバルの第一回審査員をしていた時、目に留まり大賞を受賞致しました。
今は御自身の仕事場や資材置き場に広いコンクリート打ちっぱなしの床に二階部分まで吹き抜けになった、大きな小屋のような建物を作り作品を飾っておられます。十字架で死んだキリストの姿をたくさん大小作られています。僕に感想を聞かれたのですが「ここまでぶっ飛んでいたら何も申し上げられないよ」と言っておきました。中二階にはゴッホの部屋を再現したものを作られ、梯子を登り見せていただきました。ここでもファンゴッホかと思いました。オランダ人画家万歳です。
私の21歳の時の作品を見て佐藤忠良を想像したのかいつまでも佐藤忠良にこだわっていてはだめだよと言ってくれる人でさて今夜も四時になってしまいました。

●31 画家 声楽家 世界平和運動家 三代沢史子さん

最初の出会いは銀座での作品展の折でした。色彩に溢れる130号の油絵が印象的でした、
その後しばらくお会いできませんでしたが、私がギャラリーこまを開業したら2回も開催していただきました。彼女は油絵画家の父のもとで絵を学び大学は国立音楽大学声楽家卒業という異例な経歴の持ち主です。ソビエト連邦が解体されその支配下にあった国々が独立すると民族どうし戦争がおきます。

 

 

 


セルビヤ アルバニアという言語も異なる違う民族同士がコソボで戦闘が起きます。多くの子供や婦人が殺され尊い人命が暴力によって殺害されました。場所によっては村ごと虐殺された地域もあったようです。最初なぜ肌の色の同じ者同士が殺し合いするのかわかりませんでした。日本でも盛んに報道されました。当時1000人以上の死者20万人の難民が国を追われ西の方へのがれたと記憶しています。
実際私もポルトガルのエボラという古い街に滞在していた折そこから、のがれてきたという青年に出会いました。ヨーロッパは今隣の人がどこから来て何者か全くわからない人々で埋め尽くされています。私日本人だけがノー天気で平和ボケした私がそこにいたのですよ
そんな紛争真最中一人の日本人女性が現地クロアチアにわたり砲弾が飛んでくる場所で平和のために自作の油絵を持ち込み盛んに民族同士が武力によってではなく話し合いによってことをきめるように命がけで説得して歩きました。
その方が三代沢史子さんです。こんな熱血日本人女性まずいません。すごいなー三代沢さん僕は尊敬してしまいます。それから自らの戦争体験に基ついて絵本を出版いたします。
まさに世界平和のために絵画を使い頑張っておられます国際人です。

そろそろ朝日が昇ってくる頃です。私もこれで疲れましたので寝る準備に入りたいと思います。外は薄明るなってきました。2014年 5月23日7時35分
●32 石膏職人 井野雅文さん(1943~)
井野さん若い方かと思っていたら黒髪に銀髪の混ざる方でした。東京都におられて私が依頼できる3人のうちの一人です。東京芸術大学沖縄県立芸術大学の石膏とりの講師も務めているとのことでした。
井野ですと名刺を頂きさっそく作業の準備に取り掛かられました。
プロの石膏職人さんの出番です。9時10分開始今日は女型だけの作業です。粘土原型に切り金を的確に入れる作業から始まりました。石膏がとびちら無いように透明ビニールのテントを張り 、そして一層目も石膏のふりかけ、二層目が終わったところで今度は針金で補強するため的確に凹凸の面に針金を這わしていきますそれも6番5番といった太い針金を使います。その加工が的確で猛烈に早いのです。

 

 

 


私でしたら1日10時間やって1週間70 時間かかってしまうところ10時間で終了です。女型を持つだけお手伝いいたしましたが、その軽いこととってもうすくても強靭な型を取ることができるのです。
井野さんは昭和18年生まれです。生粋の江戸っ子です父親が石膏職人で二代目です。父親から朝倉文夫に仕えた方です。朝倉先生は粘土が違うそうです彫塑用の粘土に砂やシャリを混ぜて使うそうです。アトリエは今は非公開の地下3階にあるそうです。
6畳ほどのリフトが上がり降りして作品が先生の座る前まで降りてきて制作開始、完成したらリフトを地上まで上げ石膏職人たちに任せられるようです。まるで航空母艦の甲板のようですねと申したらまさにそのとうりと言っていました。
それから荻原守衛(1879~1910)の重文に指定されている(女)という名作の111個の石膏型を組み合わせて石膏を流し込む作業をしたことを話してくれました。一つのパーツが「カタ」といって落ちてしまったら初めからやり直すそうですから大変です。一つ組むのに丸1日かかってしまうそうです。昔の型はシリコンゴムなどありませんでしたので大変だったようです。石膏とりに関しては200年変わらないそうです。朝9時30分ごろ始められ夜7時には女型が完成していましたこれからは練馬にあるご自宅の仕事場での作業だそうです。10日ほどで完成したものを届けてくれるそうです。期待致します。

●33 彫刻家 漆畑勇司 君(1955~)
本日は久々富士の友人漆畑君に電話致しました。彼は造形大学に私と同じように現役で合格して4年間彫刻を学んだ同窓生です。現在私と同じく58歳地元の名士です。
地元静岡県富士市に帰り1979年自身の土地に富士美術研究所を設立いたします。11996年に富士市文化奨励賞を受賞2004年富士文化スペース(富士文化文化村)を設立市民グループオール富士山には代表発起人を務められ地元で有名人になりました。
彼のアトリエに25年程前に訪れたことがあります。たしか地下1階Ⅰ階がなくて2階が教室3階も教室といった建物を建て現在に及んでいます。地下1階のアトリエは広々として粘土ができるように床がコンクリートででき彫刻台やアングルといった等身大のものが2つ作れるようになっています。
若干24歳でその規模のアトリエ獲得できたのですから驚きでした。
それから35年になりますが富士市では漆畑君のブロンズ像で満ち溢れているようです。最近では富士文化村の村長をしています。学生の頃は漆畑君がこんなにも地元で活躍するとは

 

 


彼は時折銀座でも個展を開いたことがあり1度お邪魔したことがあります。その時は粘土によるインタレーションといっていわゆる抽象作品での展示でしたが写実彫刻も同時に手掛けており各所にブロンズ像を設立したということです。本日インターネットで初めて知りました。

●34  漆工芸家  大畑道香さん(1940~)

ある私の個展会場に来られて私の多くの油絵の大作130号二枚を展示して商品の数々をその他多く展示発表しておりました。そこに大畑さんが来てくださり多くの油絵作品も一通り見てくださり最後に私の小さなテラコッタの裸婦像に目をとめてくださり「こんなもの作れるんだ、小泉さんはたいしたもんだ」と言ってくれました。
私としては力の入った油絵の大作をよく見て批判していただきたかったのですが、彼は小さなソフィアという題名のテラコッタ作品を称賛してくれたのです。
その時何かが私の脳の中ではじけました。
たしかに小泉正彦油絵展でしたので、ついでに出した作品が彼の眼をとらえたのです。
それから夏にかけてまたしても30号の油絵を描く私がいるのですよ9枚描き上げて自分の油絵の限界にまで来てしまいました。
もう描く熱い気持ちにはなりませんもう裸婦はおしまいか、それに代わるものがあるのか私は袋小路に入ってしまいました。
出口のない闇の自分、制作から離れて休んでいる自分、そんな日々をくる日も来る日もぼんやりとしている自分がいました。
そんなある日自分探しにもう一度イタリア、フィレンチェに旅でもしてみようかと思い立ちました。どうせこんなスランプの時って日本にいたら益々悪くなる
いっそのこともう一度ミケランジェロを見てこようと思い立ちました。
今度の旅は見たり聞いたりしたものを納得し頭にたたきとめるまで何度も見てそれをデッサンして彫刻家1年生になったつもりで勉強する覚悟で行きました。
飛行機は一番安いアイロフロートロシア航空モスクワ経由ローマ行きに決めました。
そしてローマに到着、そこから列車に乗り込み一路フィレンチェサンタマリアノベラに到着、荷物をホテルのフロントに預けすぐにミケランジェロダビデ像を見に行きました。

 

 

 

すごい迫力でした。私の薄っぺらい油絵はこの時点で吹き飛んでしまいました。
そうかミケランジェロをもう一度勉強しなければと思いました。
そして帰国、何にもないすってんてんの私がいました。どうしてしまったのか、私は、これから5月に新九郎でのグループ展があるというのに、茂登山さんに電話で絵が描けなくなったことを話している自分がいるのですよ、
藤井さんにも直接会いもう描くネタが全くなくなってしまって、これからどうしたらいいのかななどと言うと藤井律子さんが小泉さんあなたが1番若いのだし何言っているのですよ、頑張んなさいと言われ
粘土やデッサンでもするかと仕方なく自分を取り繕う私がいたのです。
そうした折、インターネットである食事療法について報告されている事柄に出会います。こうなったらだまされたと思ってやってみるかと実践し始めました。
1週間が過ぎ2週間が過ぎ何か自分の中で変化していることに気が付き始めます。
かかりつけのドクター斉藤クリニックの斉藤先生にも報告しておきました。2か月後、変わってしまった私を見てびっくりしているドクター斉藤聖磨先生がいました。
小泉さん体重が減ったでしょう、はい10キロ減ったかなという私がいました。半信半疑で斉藤先生小泉さんの血液状態調べさせていただきます。とのことでした。血液検査の結果はドクターに言わせると素晴らしいとのことでした。ここまで数値が良ければもうお薬はいりません、これ以上体重を減らさないように気よ付けてください肉食はいいですが体がすぐにエネルギ―として活用できる炭水化物、食パンなど仕上がった体に取り入れることをお勧めいたします。
今のところ癌細胞もありません血液でいろいろなことが解るようになったかと思いました。先生は現代医学の最前線におられるようでした。
大畑さんアトリエ2014年6月6日金曜日の午後1時にという約束でまいりました。約束の1時間前に到着いたしました。どこだか解りません1時間のゆとりがありました。
あわてて自宅に戻り、地図と住所、そして大畑さんと連絡が取れましたので無事電話して彼から行き方を教えていただきました。アトリエに来訪したのは4年ほど前でしたここに訪れてたことがあります。その時と変わらぬ風景が展開していました。その時は解りませんでした。見えなかったのです。誠に申し訳なかったと思います。
さて漆の事を古代日本では縄文時代から使われている丈夫で人体に悪影響及ぼさない天然樹皮であることをうかがいました。私は先ほど述べたように科学物質過敏症になってしまったので、ホームセンターへ行っても気持ちが悪くなるのですが、

 

 


ここでは、大変いい香りで満ちていることに気が付かされます。やはり天然素材だこれからはビニールウレタンではなく本物の木やヒョウタンの生地の上に天然漆を使って身に着ける作品つくりする大畑さんに注目です。
やっと彼の言わんことに気が付いたのです。
さんざん偽物を使いウレタンビニールと言った化学物質の上に人口漆など塗った毒物で満たされている日用雑貨品で満ち溢れている日常から解放すべきです。
日本漆工芸家大畑さん世界に発信する時がやって来ました。
大量生産大量消費とは裏腹に生涯使いつずけられる安全な器、漆工芸の出番です。ただ高価なのです、でもそんなこと言っていられません、人体に無害なものを使ってください、安心して毎日使えるものに次第に変えてゆきましょう、それが大切です日常雑器から毒を吸い取るのはおしまいです。
昔ながらの木の家陶器漆の器、竹と紙でできた家、自然な土壁、石そんなんで取り囲まれたら最高です。
安価で丈夫な人口接着剤ホルムアルデヒドはいけません、FRP も同じです、人体に取り入れられると肝臓が働いて無毒化致しますが肝臓を蝕めます。生活空間に接着剤を使った偽物、偽物容器はこりごりです。
漆磨くのにものすごく時間がかかるそうです。

今の東京芸術大学に入ってくる乾漆工芸科の学生がこの仕事に根を上げてしまいやめていく学生が後を絶たないそうです。大学の乾漆の教授から伺ったお話を聞かせてくれました。
現代はあまりにも早く結果を求める時代です。
それでこのような手間のかかる作業やっていられないという訳です。
急ぎすぎる現代人、利益になることのみに万進する現代人の素顔が見えてきました。
帰るころ彼のレリーフ作品を拝見いたしました。それがすごい抽象の立体作品なのです。
流れる川髪の毛と言ったものを連想させる黒光りする曲線のダイなリズムを感じました。
素晴らしい労作これぞ日本だけが世界に発信できる日本の伝統技法を用いた1つの日本のフォルムの完成だと思いました。
私は都会銀座やパリ、ミラノで発表できますと言っておきました。家のアトリエに戻りスケッチやデッサンから彼の頭部を作りました。50歳過ぎたら顔は表札だとおっしゃった佐藤忠良先生の意味がよくわかりました。

 

 

 

35 私とロダン

ロダンの作品に一番早く接することのできるのが上野西洋美術館です。世界的なロダンのコレクションとして知られています。
少年、正彦の目では何もわかりません、ただすごいなと思うだけでどこが優れているのか、どのように素晴らしいのか言葉にして表せなければ本当に解ったとは言えないと思うのですよ、ロダン以前の彫刻家とロダンがやってのけた青銅時代という作品について詳しく知り、その違いが明確に解ってないと何も書けません、そして彫刻家でしたらロダン作品に匹敵する作品一つでも作り発表して専門家から評価され代表作を作り上げ初めてロダン作品と交友できると思うのです。
そんな事なしとげで来たのは日本では 新海竹太郎 朝倉文夫 建畠大夢 北村西望 藤川勇造 荻原守衛 中原梯二郎 高村光太郎 雨宮治郎 菊池一雄 佐藤忠良ぐらいなものだと思います。
彼等は皆ロダンの理念を継承していると言っていいと思います。そうなってくるとロダンと真っ向から対峙できる人は私の学生時代は佐藤忠良ただ一人ということになります。
少年の私にとってロダンはあまりにも大きい存在でしたのでほとんど表面的なことしかわかりませんでした。ロダンに明けても暮れても熱中する17歳の少年小泉が学校の美術室でひたすら石膏デッサンしているのですよ、全然わかんないけどいいんだなと思っていたのです。
ロダンの伝記や作品集を読み漁ります。そしてもっとわかりやすく日本にロダンをもたらしてくれた荻原守衛に学ぼうと思ったのです。
上野から一人夜行列車に乗り長野県碌山美術館へ行くことに致しました。荻原守衛の著書彫刻真髄を携えて一路向かいました。
到着したのは朝6時頃でしょうか、夜行でほとんど寝られなかった私でしたが、美術館が開館するまで時間がありましたので田んぼの真ん中の広い空地を探してそのところで2時間ほど熟睡したでしょうか、気が付いたらこんなところで私は何していたんだろうと思うほど眠りこけていました。
起きてもまだ眠い眼をこすりながら美術館へと向かいました。美術館はまるで教会のようになっていました。そこで彼の代表作、工夫 文覚聖人の像 銀板 女などすべて見つくしました。

 

 


それでも解りません、ただ一つデスペアが何となく、わからないで帰ることに致しました。そして美大受験いろいろと志望校を探していると一人の彫刻家の名前が載った学校案内が届きました。その名前とは佐藤忠良です。この方ならきっと僕をロダン理解へと導いてくれるに違いないと思いました。そして造形大学一本に絞り受験勉強の開始です。造形大学の彫刻専攻は裸婦デッサンでしたので、当時の私が裸婦を描きに練習に行くことは考えられませんでした。そこで18世紀古典派の彫刻家でルノアールいう彫刻家のビーナス像の石膏レプリカが家にありましたので、それを木炭紙に木炭で描く練習を自分一人で自分の6畳間でデッサンいたしました。それと学科試験が現国英語社会(日本史)が出ますので同時に勉強いたしました受験は3月のやや暖かくなる時期に行われ、東京芸大と重なっていました。当時まだ開校して8年しかたっていない学校でしたので入り手が少ないか、Ⅰ発で合格いたしました。そして無事入学式を迎えるのですが、それはともかく彫刻科に入学いたしました。

 


●36  洋画家、骨董業 伊藤トシハルさん(1942~)

私の絵画作品が神奈川県で買い上げが決定して200万円いただきましたのでそのお金で夏休暇を利用してヨーロッパ美術研修旅行という団体旅行に参加いたしました。イタリア ローマ フィレンチェ アッシジ シエナ パリ ベルギー スペイン マドリード
トレドといった豪華なツアーでした添乗に金沢さんという方が参加されました。フィレンチェでウフィチィ美術館に向かう途中古物屋さんを見つけましたので、団体に遅れないように手早く3つの銅製のものを購入いたしました。その3つが私の絵画世界を拡大していくことになります。
一つ目は三角帽子の付いた燭台 と魔法のランプと水差しです。日本に帰りその3つを画面に配置して描いたものが昭和会賞に入選して翌年日動画廊から招待出品を受けますそれと同時に静物画の初個展をギャラリーねこで開催いたしました。
洋画には洋品があいます。

 

 

 


つずけて来年も招待出品になるのですがとうとう賞は取れませんでした。がしかし静物画という新しい質感描写の世界へ導かれ第二の西洋アンチークを探し求めることになります。
小田原に椿が美しく咲く頃帰り道にアンチーク伊藤という看板のお店を見つけたので入ってみたら古物の多いい事ところ狭しと並んでいました。
店の主は伊藤トシハルさん油絵も描かれるかたであったことを知りました。それから西に向かう折は必ず寄るようにいたしました。
彼自身も骨董好きでいろいろなものを市で仕入れては私に見せてくれました。洋画の方は佐伯祐三が大好きで明けても暮れても洋画の話になると佐伯祐三が登場いたしました。
私も大好きですというととても喜んでいる姿が目に映りました。
温厚で優しく思いやりがあり思慮深い方で好き嫌いで物事を決着させる性格の持ち主でした。
そんな私がロダンがいい―と述べつずけているとロダンの考える人が手に入ったからあげると言ったのでまさかと思っていたらロダン美術館製造のレプリカ樹脂製ブロンズ加工されたものでした。
我が家にとうとうロダン作品の複製がやってきました。これは棚から、ぼた餅です。

伊藤さんのお蔭です毎日見てはロダンの面の処理の仕方 塊の表現など直にいつでも見ることができるようになりました。その後も伊藤さんのアトリエや居間に案内されいろいろなことを教えていただいております。また多くの文化人がこの店には訪れましたので主に3人の方と出会うことができました。
●37 木口木版画家 及川泰宏さん
一人は及川さん木口木版の専門家です。現在鎌倉雪ノ下にお住まいです。英語を話し世界中を旅して歩き彼は経済学部でしたが、ある書店で木口木版と出会いそれにのめり込みます。
そしてニューヨークの会社を退職して、ロンドンの木口木版職人のもとで2年程、修行して帰国1時期足柄に住まわれたときに伊藤さんの店で出会うことができました。
アトリエを見せてくださいと申すと危険物がいっぱいで見せられませんとのことでした
。伊藤さんの所で作品や道具を拝見する事ができるようにしてくれました。
細密に彫るための固いつげの木の板や彫刻刀お拝見いたしました。

 

 

 

かれはその時、腱鞘炎をこじらせ痛くて制作が思うようにできないと語っていました。
そうした折、皇室の雅子様より直接依頼がありツゲの木にレッドチェッペリンというロックンロールシンガー4人の肖像画を彫ってくれないことの注文を引き受けます。ここぞ絶好の機会ととらえ体の不調を無視して取り組みます。
できた物は宮内庁のものとなるため4枚のみ刷ることが許され、その一点を拝見することに致しました。一本の線が渦巻き状に中心から外側へ描かれその微妙な太さ細さで彼らの肖像を新聞写真でも見ているかのように表しているのですから驚きでした。
それから海外の美術館から全作品の購入の申し出があり、まとまったお金を手にしてアメリカの整形外科のもとで腱鞘炎の手術に向かいました。
手術は成功したようですが私と同じく版画の仕事があまりないようで、細川元総理の茶室でアシスタントのアルバイトをしておられたり、鎌倉のガラス工芸所で働いたりしているようです。とにかく何でもできる人なので驚きです。

●38 人体彫刻制作の事

基本的にモデルを呼んで裸になっていただきポーズを決めます。そしてデッサンをして等身大であればそれに見合う芯棒を針金とシュロ縄で作ります。それに粘土を絡み付けて全体のバランスを考えながらモデルを観察して作ってゆきます。

モデルさんがポーズする時間は限られていますので、モデルが帰ったらデッサンを見ながら作りつずけます。そうしてモデルにたえず来ていただき制作をつずけますが、モデルさんを型取したようなものを作っても見られたものではありません。
                      
でも彫刻は最初はモデルに忠実に作りますがある1点を機会にモデルと違ったフォルムをひねり出します。デフョルメとか強調とか言いますがそこから彫刻がスタートするのかもしれません、彫刻は永い歴史の中で成立してきましたのでその美術史やその様式、方法など熟知していなければなりません、例えば現実のモデルさんだとこうなっているがこの腰の描写はドナテロはどうやったかロダンはどうやったか詳しく知っていなければなりません、また人体解剖図ではこの部分の筋肉はどうなっているか熟知してそしてモデルさんを見て表現していきます。

 

 

 

結果的にモデルと違った形の彫刻になることも多々あります。蠟人形師のように人体を型取りしたようなものは作りません。
それなら機械がやってくれます。人体彫刻で最も重要なことは理想や敬愛、愛おしさなど感情表現ですから
一般に東洋人は体全体に対して足が短く胴が長い傾向にあります。
バレリーナを例にあげて語ってみたいと思います。すべての人が鍛えればパレリーナのようになるわけではありません。また体全体に対して顔がでかいのも東洋系の特徴です。これはバレリーナのコンテストでよくわかりますどんなに技術があってもプロポーションが悪ければ芸術点が下がります。
その辺西洋人は足が長く顔の程よく小さいのでバレリーナには適していると思われますが技術点が低いので形が取れていません
彫刻のモデルも同じようなことが言えるのです。プロポーションのひどく悪い人がモデルさんをしていることがありますが作る気になりません。

やはり筋肉質で皮下脂肪の少ない体つき柔らかい関節の動きがはっきり見える、ある新体操系の方がモデルとしてふさわしいと感じています。なかなかそういう方はめったにいませんので月並みな彫刻が量産されることになります。ですからモデル紹介所から送られてくるモデルさんたちの実物の人間のプロポーションでは彫刻になりませんのでたとえば足を少し長めに長くしてしまいす。

そうすると全体のバランスも違って来ます。様々箇所を手直していかなければなりません。そうするのもよくモデルを見て行います。結果的にはそのモデルから作ったものには違いありませんがモデルとは違ったものができてきます。肖像彫刻ではないので作品に先ほど述べた事柄が伝わってくれば良いのです。
彫刻制作で手足ができたら1人前と言われています。それほど絵画と違って手足、顔を作るのは非常な難しさがあります。初めはその事にもきずかずに作りつずけてほとんどたどり着かずに終わってしまいます。

 

 

 


芸術作品には程遠い状態の方の作品を多数目にいたします。また360度無限に近い線が存在致します。細部目鼻耳手の一本までできてどんどん修正をかけてゆき作っては壊しを数回やり完成に近ついていきます。でも完成はないのです。ミケランジェロでさえ一点を除いてすべての作品にサインを入れていません。完成したものにのみサインをいれるのが普通です
39 佐藤忠良先生の思いで

佐藤先生ほど学生に愛された人はいません、先生はいつもオウと言ってやって来ます。すると学生は忠良先生と言って先生を歓迎いたします。先生は学生一人一人に一言ずつアドバイスをくださいます。
それにもとずいて向上精神の強い学生はすぐお言葉を取り入れv作品に反映致します。私も3年もの間手取り足取り唇の作り方目の作り方鼻の作り方先生自らヘラを入れられこれでもっと量が大きくなっただろうと教えてくださいました。先生の作品になってしまった物が1点あります。
田口さんの像です。其れで造形の本質を僕だけにこっそり教えてくれました。近年それを手に取り若かった自分の過去を思い知りました。

●40 ロダン(1840~1917)の栄光と苦悩

ロダンはデビュウするのにこれほどかと思うほど苦労して日の目を浴びた彫刻家もいません、まず彫刻家はエコールデボザールパリ国立美術学校を優勝な成績で卒業して官費でイタリアへ留学さらに修業を積んでサロンで活躍するといったお決まりの出世コースがありました。ロダンは20歳の時から優れた才能を発揮したにもかかわらず入学はかなわず修道院の僧になろうと決意します。その後エイマール神父の助言で再び彫刻の修行を開始いたします。
初期は下手だったのでしょうか、とんでもありません私が見る限り天才性がすでに表れています。20歳の父の像などは私の好きな作品の一つです。それにもかかわらずボザールに入学できなかったのは当時の主流派新古典主義で、ロダンのように激しい感情の動きを感じさせるものは異端とされたのです。

 

 

 

それで毎回落ちました。ロダン36歳とうとう青銅時代の完成にこぎつけます。でもサロンに出品しても落選、)理由はあまりにリアルなのは人体から直接かた取りによるものであろうという疑いがかけられましたためです。
でも妻ローズブーレが審査員の家を一軒ずつ回りモデルの写真と彫刻の写真とを見せその違いを明らかにいたします。それで審査員の一人がロダンをよんでここへ呼んで粘土の人体習作をやるよう指示いたします
エコールでボザール卒業でもないロダンは屈辱を耐えてモデルも見ないで見事な人体を作ってみせました。そこでロダンの現実を知った審査員たちはロダン:の作品を来年招待出品にいたします。ロダン自身これに洗礼者ヨハネを加え出品国家買い上げとなります。これで晴れてロダンはパリの画壇に出現致します。
装飾美術館の門として国家から地獄の門の制作を引き受けます。ロダンはようやく彫刻家として認められ自身の作品で生活ができるようになりました。もうロダンは40歳になっていました。

 

●41 ロダンの道

巴里がすぐロダンを受け入れたわけではありません。同じ彫刻家から危険視されます
そうしたロダンも自身人体から直接かた取りしたなどという風評を避けるために少し人体を小さめに作るかして型取りではないことを証明いたします。

世間ではやっとこのことに気が付きロダンが国際デビュウ致します。それと同時に彫刻を習いに来ている子弟の教室の椅子を獲得いたします。
サロンで賞を取りイタリア行きが決まったピサロという彫刻家の後を任されたのです。
そこでカミーユクローデルと出会います。
美術館の門の制作のため多くのアシスタントを必要としていました。そこで粘土作品を石膏にできる石膏職人、原型から大理石に彫れる石彫り職人その他大勢が必要となりました。

ロダンは最初とても小さなものを粘土で作りますそれは煉瓦一個の中に隠れてしまうほど小さいのです。それをアシスタントが粘土で拡大してゆきます。

 

 

 

拡大されたものに追求加筆修正致します。そして原型の出来上がりです。ここで若いクローデルが並みの男の5倍スピードで夜も昼も寝ずに大理石に彫りつずけるのです。

カレー市からカレーの市民のモニュメント制作の依頼がありました。でも提示された予算は1体分の鋳造費でした。そこでこの予算で7人分作ることを約束いたします。
ロダンプロジェクトの立ち上がりです。だいたいの人物の配置ポーズといったことはロダンが構想を練り上げます。モデルにロダンの息子が使われました。

そこで1番難しい手や顔と言ったところはクローデルが担当致しました。人体にボロ布をかけるアイデアクローデルが関わっていると言われます。

最終的にはロダンが手を入れ完成ですが、ロダンは自作の営業のために多くの社交界で多くの外国人と交流して世界に自作を売り込みます。

 


日本では松下幸之助地獄の門の買い手となりました。初めて鋳造されました。クローデルは当時は美貌溢れる人で美しい体をしていましたので、自ら裸になり回転するモデル台でポーズをとり多くのアイデアロダンにもたらしました。

有名な地獄門では頂点に男が2人でしたがクローデルの提案により3人になりました。
パンセなどは若き日のクローデルがモデルと聞いています。粘土が地面に落ち偶然の失敗からこの作品は生まれました。

クローデルも余暇に小さな彫刻の習作を作り個展をパリで開催いたします。
この時ロダンもパリにいる天才女流彫刻家として称賛いたしました。
弟のポールクローデルも詩人でしたが農業省にコネを持ったロダンの計らいで外交官を致します。兄弟でロダンのお蔭を受けるのですが、ロダンも罪の多いい人で、内縁の妻ローズがいるにもかかわらず、ロダンクローデル男と女の関係に発展してゆきます。そしてとうとうロダンの子を身ごもります。しかしその子はおろされることになりました。

 


クローデルロダンに求婚いたしますが拒否を致します、妻ローズを抱きかかえ乙女から逃げようとして離れるロダンの姿を彫刻いたします、この彫刻が今やオルセー 美術館の青銅時代の隣にこようとはロダンも知る由もありません、まったくこの時代も女性が活躍しています。

ロダンクローデルに経済援助を致しますが当時女性が食べていける仕事はありません彫刻を売るしかありませんでした。

次第に失恋はクローデルを狂人へと導いてしまいます。目立って嫌がらせをしてロダンを苦しめます。
ロダンはこの事情を弟ポールに話クローデルを精神病院へと送り込みます。自由を失ったクローデルハここで生涯を終えることになりました。

後年病院の関係者がクローデルの事を知って粘土を用意いたしますが拒否をしたと伺ってっています。こうしたクローデルに共感したのか日本にもクローデル晩年の肖像を立体人形にした方がおられます。磯崎さんです私の妻智子の友人です、現在精神病院で介護士をしておられます。
●42 アセンブリー平塚教会

私の生活は礼拝からスタートいたします。現在牧師は129号線沿いに位置する小さな教会で、阿部栄子先生と呼び平塚に赴任して20年がたとうとしています。いまだに独身です、北海道の原野で生まれ育ち短大を出て保母を致しますが献身して神学校で聖書を学びたったひとりからビルの3階を借りてスタートいたしました。(オオム真理教が犯罪を犯し統一原理が集団結婚式などして問題となり宗教とりわけ正当なキリスト教徒が嫌がれる風潮がはびこります。)まだ現在は数名の信徒ですが先生は頑張っておられます。絶えず祈りの人です異言の賜物も持っています。神と直接交信するそうです。私もお祈りを致したいと思います。

 

 

 

 

 

●43  クリスチャンと美術

プロテスタント系に属するキリスト教会派は音楽には神を賛美するという目的で肯定的で
美術に関して著しく無関心で否定的でさえあります。カトリックは別としてそれでは美術を学び美術で神様を賛美する事、伝道する事できないのでしょうか、できます。何もあなた方に聖書のイラストを描いてくださいと言っているわけではありません、主はお互いに愛し合いなさい、これが私が唯一あなた方に与える律法ですといわれました。要するに主にある人間愛、人をいつくしむ心、平和を願う心優しさ、思いやり、明るさであり輝きであります、こうしたイエス様の御心にかなった人間愛こそがキリスト教美術なのだと思いました。現政権は集団的自衛権と言って自衛隊を世界のいかなるところでも警察にかわって武器の使用を可能にしようとしています。
自衛隊の領域拡大です、恐ろしいことです。憲法第9条に違反する行為としか見られません、こうした背景の日本の社会で美術家とりわけクリスチャン美術家は地の塩、世の光となって絵画や彫刻を通じてイエスキリスト様の愛という事柄を世界に発信する時が来たように思へます。

●44 町田俊之先生バイブル&アート ミニストーリ代表

こうしたプロテスタントの美術状況に御くるしみなり何とかせねばと祈り求めて25年ほど前からバイブル&アート ミニストリーを設立し、クリスチャンの美術活動のあり方について研究会や講演会を開催してゆきました。
現在も奥様とお子様4人で頑張っておられます。私も時折報告書を送り読んでいただいたことがあります。迷ったクリスタチャン美術家が多いいこの日本にあってクリスチャンにキリスト教美術の成り立ちや美術についていろいろなところで講師をされておられます。

 

 

 

 


●45 ジョルジュ=ルオー(1871~1953)

キリストを生涯に渡って描きつずけた画家がおります。勿論、それはミゼレーレの連作で有名になったジョルジュ=ルオーです。
彼もロダンと同じく固い体質のサロンに苦しめられます。ロダンと違うのは彼はステンドグラス職人をへてエコールでボザールに受験して見事合格いたします。そこで巨匠ギュスターブ=モロー教室に入ります。(同期にマチスやマルケがいました。)師弟関係となりすべてモローの指示で行動決着したします。モローがやめろと言えばやめました。ローマ賞を逃した彼は、時のサロンの出品を取りやめ、モロー美術館の館長に就任致します。そして版画集ミゼレーレを出版、白黒でしたが、ルオーの様式が確立されていました。
それに基ついて油絵を色彩でステンドガラスのように描きますテーマはキリストの愛でした。信仰と美術が統合した珍しい画家です。
その後ルオーは国際的評価を獲得して不動の地位を獲得いたします。
このように現代の私たちもこうして信仰と絵画や彫刻が一つにならないかなと探し求めて30年近く研究をしておられます。私も受難をテーマに聖書挿絵を描いたことがありますが賛否両論で思うようにいきませんでした。
信仰が足りないのかなと反省するしだいです。あまり無理をしても仕方がありません私は人種を超えた人間に対する愛が描かれていれば十分、キリスト教的美術だと思うようになりました。互いに愛し合いなさいと教えたイエス様の事が思い出されます。

民族同士の殺し合いが地球のどこかで巻き起こっています。そうした人類の悲惨な歴史を見れば戦争の歴史と言ってもいいかと思われるほど人類は凶暴なのです。殺し合いが大好きなのでしょうか
そんなわけありませんではなぜ、それは食料の奪い合いなのかもしれません
地球に現在70億ともいわれる人類ですから食料が尽きてその争奪戦がいつ起きるかもしれません恐ろしいことです。
いつも犠牲になるのは子供や母親と言った弱者です。
一体いつになったら全地球が平和でみんなが暮らせるようになるのでしょうか、ともかく互い思いやることでよいのですから、まずは自分からでしょうか、

 

 

 


今日は井野さんご夫妻でこのアトリエにもう一つの人体を石膏とりして持ってきていただきました。前回より小ぶりでしたので17万円ほど支払いました。誠にありがたいことです自宅にロダン作青銅時代の石膏型があり青銅時代の完全なレプリカが置いてあるそうです。まったく驚きです。個人宅にそんなものがある家、聞いたことがありません、新しい刊行物ロダンの道を差し上げました。


●46 ムードンのロダン美術館

ロダンまたしてもロダンです。彼のやった偉業は数知れませんすべての立体作品のバイブルだと思います。現代彫刻は彼から出発していると言っても過言でありません、そうした私がムードンのアトリエを訪れることができたのはかれこれ十年はたつでしょうか
、ムードンの街は坂の多いい地形です彼が愛したのが解ります。

廃屋になっていた城を買い取りアトリエと致しました。その広大なことロダンが死んだときにパリ中から押しおよせ1万人に及んだのですから驚きです。それに比べゴッホは4~5人何たる差でしょうロダンは時代が追いついた人です。

これがもう少し前衛でしたら悲劇でした。ゴッホのように皮肉にもロダンゴッホの絵を1枚購入しています。
タンギー爺さんの像ですパリ時代の代表作ですロダンもきっと知っていたに違いありませんタンギーゴッホ兄弟の事をロダンとモネが同世代です時々印象派の仲間扱いされますがそれは間違いだと思います。
印象派ロダンの作品の中に入ってしまっていると言えばよいのです。丁度ベラスケスがバロック時代に印象派を先取りしているのと同じだと思います。レンブランドの絵画が唯一、ロダンに近いとされています。絵画の方が先行しているのです。
ムードンには二つの駅が存在致しますどちらの駅でもいいのですがロダンのアトリエまで案内人が必要です。地元の人が知っているとは限りません世界一有名なアトリエも現代では看板一つ出ていないしインフォメーションもありません運よくたどり着けば幸いです

 

 



私も3度目にやっと入ることができました。入ると入口からアトリエまで500メートルくらい歩いてやっと考える人が目の中に入ってきます。
そしてアトリエと言ってもまるでギリシャ神殿の中に入るようで壮大で大きな円柱で囲われていました。
青銅時代から、彼が生涯に渡って作りつずけた作品が今も眠っています。国宝級のものがぎっしりあります。驚きです青銅時代の原型はそれは見事なものでした石膏でこれほど美しく作れた人はいませんカチッとしています。それから洗礼者ヨハネの像これも見事です。彫刻はある理想へ向かって突き進むのだと思います。

ある理想とはギリシャ ダビンチ ドナテロ ミケランジェロ ロダンが思い描いたある共通の理想を追い求めてゆくのだろうと思いました。それから外れることなく一本の伝統的な営みが現代彫刻でも存在してあるのだろうと思います。
写実の再出発です。さて私の次なる彫刻ですが今度は男性で行こうと考えています。
ロダンもデビュウ作は男性でした。

男の体も美しいのですダビデ像のポーズをした男性とでもやろうかと思っています。

本日は藤井さんの所へ出品作代行搬入の業者アートポエムさんの情報を頂くために行ったところ私のアトリエに来ることをご夫妻で了承していただき来ていただきました。律子さんがアトリエを見て天井からの光がいいので驚いておられました。
すっかり彫刻家のアトリエとして機能し始め、私がここで制作活動を再開できたことを喜んでいただきました。ここで様々貴重な体験話をお伺いできました。
●47 モデルと画学生
なかでも藤井兼好さんが阿佐ヶ谷美術学園当時そこはデッサンのみで油絵は描けなかったそうです。
そこであるアトリエで素人のモデルを雇い着衣で1日描きあくる日服を変えてきてしまったモデルさんがいたそうです。予め約束を裏切ったら全裸になっていただくとの了解を取っていたので、約束どうり全裸になっていただいたそうです。
その時見せた素人モデルの悔しさ恥ずかしさの表情が何とも印象的でとてもウイウイしい感動を皆がしたそうです。
ちょっぴりエッチな話ですが、1番喜んで快楽に感じたのは素人モデルさんだと思いました。

 


こうして成熟した女性は一定の取引条件下で美術学校や研究所の真面目に芸術を学ぼうと志す人々の前で、自らの全裸をさらしすことで、新しい自分を発見してゆくようです。
ですから1度やったらやめられなくなるとあるモデルさんから伺ったことがあります。

全裸をこうした異性に見られることに快感を覚えるのも女性、特有の喜びなのだと思いました。それからアトリエを後にしてご夫妻をご自宅まで送り戻りました。一般の社会人には理解できにくいことかもしれません、でも一度体験してみればわかると思います。モデルと画学生って結構あっけらかん、としています。
私の古代彫刻のデッサン室を見てくださり藤井律子さんからこれらの彫刻を置くイギリス製の台をくださるとの事、楽しみにしています。

●48 五百住乙人素描集の事

さて本日はクロネコメール便」で五百住先生の素描集が届きました。私のロダンの道のお礼ということで、誠に先生のご丁寧なご配慮には恐縮いたしました。画集は美術評論家中野中先生の文からスタートした128ページに及ぶとっても充実したデッサン集です。1ページ1ぺ―ジゆっくりと拝見いたしました。
画家のデッサンとは思えない人体の細部まで一本の線の中に描き込みられた線を見ているのですが人体の美しさ構造までしっかりとらえられ人間に対するいつくしむ心が感じ取れました。

デッサンだけでは彫刻家のデッサンかと錯覚を覚えてしまいます。彫刻家は360度の線に緊張感を与えていかなければなりません一の角度からも全体の様子が感じ取れるような彫刻を作ることを目指します。
ところが、画家は一本の線を選び出しその線に命を吹き込もうと努力致します。彫刻家も大変ですが画家も大変です。
そうしたことを思い浮かべながら先生の作品集を拝見できました。

単に習作素描の域を超えられ五百住先生の裸婦や人に対する。あたたかい思いやりや愛情と言った事柄、が感じ取れます、

 

 


もうこれは素描というよりダブローであったり習作であったり1つの五百住先生の絵画が成立するプロセスでの骨組みを見ているような感じでした。丁度美しいロマネスク建築の礼拝堂の背後に隠されている頑丈で堅牢が石や粗削りな太い角棒や柱、太いはりを見た時の感動に似ています。
藤井夫妻を家まで御送りアトリエに戻り骨組みを作りました。


●49 青年の像

8番線にシュロ縄を巻きつけ人体の骨格を形ず作ります。そして粘土つけ、ホームセンタが閉まっている時間でしたので極めて柔らかい粘土を使用いたしました。
中が柔らかく外が少し固めになるまで待ちますそしてポーズを決定ミケランジェロダビデのポーズをとった写真を発見それにしたがって作ることに致しました。
今回はいきなり等身大を作りました。
男性像は初めてでしたが少女を作るつもりで肉つけを致しました。
すると40時間経過したころから青年が姿を現し手や顔と言った細部までどんどん作っていきました。手があらわれ顔が表情を表し髪の毛まで一気に作り込みました。
途中腕に亀裂が入りましたが、無事修復現在6月19日の3時15分ですようやく完成いたしました。
56時間以上かかったでしょうかとても速く作ることができました。人体の情報量が多い場合はこんなにも早くできるのかと思いました。
自分の手を見て追及して最後は顔に向かい無事完成いたしました。

9時に石膏取に井野さんにお願いしていますのでそれまで私の目の中で見守る必要があります。
亡き岩野先生も同じような経過をたどって石膏職人に渡したのだと思います。先生も見事な粘土付けで大きな裸婦像を何体もおつくりになり私に個展の案内状を送っていただいたことがありました。その時は現代彫刻センターの個展でした。すべてブロンズというお金がかかった個展でした

 

 

 

さて私の彫刻に霧を吹きかけて細部の修正を致しました。ロダンの言葉をおもい浮かべます。面を平面としてではなく奥行でとらえろという言葉がようやくわかってきました。
一部基礎の骨組みの一部が飛び出しましたのでそこを手拭いをかける青年の姿にいたしました。
若いころ銭湯ではだかになり手首に鍵のみと手ぬぐい肩にかけ湯船から出た体験思い出しながら、青年像の裸の姿の完成です。
あと井野さんの手に渡るまで5時間今日は何としても寝るわけにいきません。4時10分前が新聞配達のバイクの音がいたしました。町は眠りから覚め新しい日が動き始めました。男は美しい、女性では表せなかった孤独感と言ったことまで表現できます。
やはり男です。ロダンも男を作りつつけました。ようやくロダン言わんとしたことが解ってきました。男のロマンです。孤独感、男の寂しさであり愛おしさでもあります。これから男を作りつずけようと思いました。額に汗して1日の肉体労働を終える完成した大人の男の一瞬の悲しみつらさを表そうと思いました。今額にしわを刻みこみ額を作りました。男の少しばかりの生きる苦しみを出せたかなと思いました。これで完成か4時40分、やっとアトリエの掃除を終え井野さんの来訪を持つのみにたりました。9時25分井野さん到着石膏取をしていただきます。やっとやれやれこれで私の作業終了。

●50 手の習作
石膏像になってきた2つ目の人体裸婦像立てるソフィアは手が十分できてませんで石膏取に井野さんに任せてしまいました。これ以上粘土の状態で維持つずけることは困難であるとわかったからです
粘土は極めて不安定な物質です、自由につけたりとったりできる代わりに柔らかく固くもなりそれ以上固くなると亀裂が入りそこから崩落することだってあるのですから。また中のシュロ縄が腐り始めましたらおしまいです。
ですから制作からⅠっか月が限界だと思います。それ以上放置したら何がおきてしまうか 予想もつきませんロダンが青銅時代の制作に2年を費やしたのは。
粘土で1か月か2か月で作り、イタリヤへ1人行きミケランジェルをくまなく観察して得た情報をもとに今度は石膏に取り1年と10か月かけて慎重に石膏盛り付けをやり削りだしまた盛り付け削り出す作業に終日夜の寝ずに取り組んだのだと思います、それをうらずけるかのようにムードンにある青銅時代石膏原型にはいくつかの異なった石膏の盛り付け層が確認できました。

 

 

 


これは石膏研究家の井野さんにも見ていただき確認していただきました。いかに粘土の段階で完成してしまうのはよほどわかっていて自分の彫刻の理念が確立した人だけが持ちうる技だと思いました。あのロダンでさえもやっていたのですから驚きです。
よほど盛り付けや、けずり込みがうまかったことを証明しています。
今日は二人目の裸婦像の手の部分が未完成でしたので粘土で自分の手を見て作ってみましたそれを全身の裸婦像に適用して石膏で盛り付け形ずくる作業で1日かかりようやく左手が少し力を入れて握っている様子ができてきました。手をおろそかに四角くしてしまう彫刻家多いのですが私は手も細部まで作り込みたいと思うのです


6月19日は井野さんに青年の像の初めての男性像を石膏に取っていただきました。
方に手拭いを叩き付け湯船から上がり上を見上げている青年の像これは石膏になってくるのが楽しみだと申しました。
無時石膏とり終了です。手は複雑なので腕から型のみを取り外し見事にかた取りを終了して頂きました。

 

だから手は離れていても型取り出来ることを教えてくれました。誠にプロの技術です終わりにロダン青銅時代の型が眠るそうですのでそれを是非型取りしてお売りくださいと申しておきました。型が壊れていてもとれるところまで取って私に譲ってくださいと言っておきました。期待致します我が家に青銅時代が来ることをさてこれから坐像の乙女を作ろうと思います。

●51   湯浴み完成

本日6月26日の朝、湯浴みと題する彫刻が出来上がりました6月28日に井野さんに取っていただく予定です。今回は裸女が石の塊の上に座り体をとりわけ足をぬぐおうとしているしぐさを作りました。
すわりポーズで等身大は初めてでしたので結構はまりました。

 

 

 

制作途中、陶芸家の岡村昭夫さんが来られこれを眺めておられました。
岡村さんは大学時代に4年間も安田周三郎に彫刻を学び卒業された方でした。モデルはと聞かれたのでいないと答えたらどうしてこんなかっこいいものが作れるのだと言っていました。
それは解剖学をやっていれば作れるのです。と言ったら納得されへーと言っていました。丁度ギリシャ人がミロのビーナスを作った時と同じで私も女性の美しいフョルムを追求した結果このようなものになったと言ったら何か言いたげな様子で像を見ていました。

彼は写実彫刻を横浜国大で学んだあと抽象の彫刻家藤田昭子さんの工房でアシスタントして就労して陶芸の世界へと導かれて行った人で青磁を専門にやっている人です。
私にと4~5個青磁カップを持ってきてくれました。今日はそれで水を飲んでいます。

人体美術解剖学をやれねば彫刻は不完全です。まずは人体って左右対称であること指は5本脚も同じく5本ですこれが間違えて6本つけてしまったり、第1関節第3関節までなのですが、第4関節まで多いい彫刻を見つけたり致します。
これはおかしいです。またからだは 様々な筋肉で覆われその下にでかい塊である骨が収まっています。
それが感じられるように作ってゆきます。そして大きな構造体が見えてきて面白くなるのです。塊の表現が彫刻特有の色です。
フョルムの崇高さであり気品でもありドラマでもあるわけです。これらの事を粘土で表現できなかったものは一生獲得は無理でしょう
それくらい微妙な世界です。ロダンやマイヨールなどそこがうまいのです。面の表現でフランス彫刻を形作りました。
かつて西先生が私が大きなフョルムが解った作品をご覧になり私はフランスです。ですから面で彫刻を形作りますと言っておられましたのを思い出しました。
ちなみにイタリア彫刻は線であるようです。それはともかく、解剖学は大学時代は禁止でした。
やっても観念的になるだけで表現としてのものにならないからです。でも関節が多かったりしては人体になりませんので注意が必要です。

 

 

 


それは指まできちんとできる人に限られます。たいてい手でゆかないのです。それではお粗末です。足の指手の指、髪身の毛の表現から皮膚まできっちり作って彫刻です。

我々は昔の彫刻家武畠大夢や朝倉文夫に学ぶべきです。彼等の彫刻は細部まできっちり作っています。細部があって全体があるのです。
そこを省略しているのが現代具象彫刻だと思っている人々がいますが、それは違います。
具象彫刻を見直す時が来たのかもしれません

●52  ロダンと花子

花子は本名、太田ひさ1868年(明治1年)愛知県」中島郡祖父江村(現尾西氏)で父八右衛門、母うめの3男5女の長女として生まれた。実家は相当な大百姓で傍ら機械業を営みそのものを売る店を名古屋に出していた。八右衛門は芸事を好み、母うめは芸を身に着けていました。それで娘たちは幼いころから芸を仕込み花子には五歳の時から踊りと八雲琴を習わせた。花子は二歳の時妹が生まれたため、乳母とともに名古屋の店で済むことになりこの隣家の青果商酒井夫婦に非常にかわいがれ、しまいに乞われて養女になった。ところが酒井の家が没落して、一〇歳になった花子は旅回りの女役者一座の子役として美濃,信濃、飛騨と険しい山道を歩きまわり、その末名古屋で舞妓として売られてしまった。そこで芸を仕込まれ「一六歳の五月には一人前の芸者になっていた」と花子は語る。芸子としてお座敷に出るようになって間もなく二〇歳も年上の土木工事請負師に見受けされ、所詮金で買われた身とあきらめて一〇年を過ごすが、終いに自暴自棄になって、この夫と別れ横浜へでた。途方に暮れる花子に「デンマークコペンハーゲンに小さな博覧会が開かれ、そこに店をだすベルギー人が客集めのために日本の音曲や踊りのできるものを募っている」と知り、この踊り子として横浜港に立ったのが一九〇一年(明治三四年)花子三三歳の時であった。約三か月の興業が終わってほとんどのものはベルギーのアントワープから帰国したが、花子は日本に暮らしのない身。胸中ひそかに、小さくとも一つの踊りの劇団を作ってヨーロッパを打ってまわりたいと考えていた。アントワープには日本の領事館もあり花子の志を聞いた領事の好意で、ドイツ人興行主と契約を結び花子は女優としてスタートすることになった。一九〇四年(明治34)花子34歳の時でした。

 

 


ロンドンのサボイ劇場で得意の踊りを披露しますそれも歌舞伎俳優が見せる死の断末魔73の睨みを海外で初めて披露します。
花子は小顔で日本人としてはまれにみる容姿の美しさを持っていました。
踊りはたちまち喝采の渦となりヨーローッパ興業が成立いたします。
花子一座の誕生です。まだエリザベステーラやオードリーヘップバーンが活躍する50年以上も前のことです。
世界が女優花子に魅了されます。パリ公演の折、ロダンはベルギーで名刺を渡していたこともあり,稽古や興行の忙しいスケジョウルのひと時の暇なときにモデルになっていただくよう申し込みます。
ロダンは花子に魅了されていたのです。フラーの自動車花子を迎えに行きアトリエに来てもらい数々の花子の顔ができます。そしてようやく日本に帰るめどが立ち日本行きの船に乗るときロダンからブロンズの花子のマスクを1個プレゼントされました。

後年ロダンと文通がされ手習いの覚えのない花子でしたがフランス語で手紙のやり取りをしていたということです。まったく驚いたことです。そのブロンズの花子は彼女をへて大原美術館に寄贈されたそうです。
日本の初の世界的女優です。まったく花子の活躍には驚かされます。私もかつて花子顔を摸刻したことがございます。日本とロダンがここでつながりました。荻原守衛の死後女という未完制作の写真をロダン与謝野晶子氏らによってもたらされここに私の真実の後継者がいると言ったそうです。

 


●53  彫刻家 藤川勇造

ロダンは日本とも深くつながっているのです。その後ロダンの助手をしていた藤川勇造が帰国致します。藤川によってロダンは詳しく伝わることになります。フランスの郊外に滞在した折その土地の粘土素焼きしたクララは彼の代表作であるとともに日本近代美術史上の名品となりました。

 

 

 

 

●54 彫刻家 高村光太郎
高村光太郎ロダンの言葉を翻訳いたします。光太郎自身彫刻家でしたので田舎の娘に裸になっていただき彫刻を作り彼自身の手の作品はあまりに有名になりました。光太郎は詩人でのあり日米開戦の折、詩を発表致します。それは日本がアメリカに戦いを挑むことに肯定的な内容となりました。戦後その事の責任を感じて岩手県の田舎に引きこもってしまいそこで1生過ごすことになります。この時有名な十和田湖畔に智恵子の像を作り設置致します。大きな作品です友人のアトリエを借り制作したようです。
ロダンを彫刻家が体験するのには若いころの裸婦のデッサンや塑像が不可欠と言われています。光太郎は若いころの裸婦の塑像が少ないのです。そのためほとんど裸婦像ではロダンを思わせる作品はできなかったと言われています。また評論で朝倉文夫氏の作品をひどく批判しています。

 


●55 彫刻家 朝倉文夫

朝倉氏は光太郎の手を購入してロダン理解を強めていきとうとう上野駅の構内に傑作女を設置致します。朝倉氏の勝利だと思いました。それから朝倉氏は墓守 をはじめ数々の傑作を作りだし名作を多数残しました。日暮里の朝倉彫塑館へ行けばわかると思います。猫などの小動物の塑像も優れています。

 

 

 

 

 

 

 

●56 現代具象彫刻研究所

大それた名前だ、でも確かに毎日ここで現代具象彫刻作家である私が粘土と戦っておるのだからその内容にふさわしいネイミングだと思うのです。
昔銀座地球堂画廊2階の広い会場で田辺鈴さん企画の小泉正彦展開催されたおり、フランスに城所有する大金持ちが自ら描いた抽象絵画のカタログを私に見せ写実は終わったのです。などといっていました。
その時私は油絵で冬の木ばかり描いていましたのでその写実が気に入らなかったのでしょうか、私は無言で彼の言い分を聞きました。それからギャラリー喜久田喜久田さんが来てくださりⅠ事2事アドバイスを頂きました。そのあと佐藤忠良先生が笹戸さんと一緒に来てくださりました。
佐藤先生が私の個展会場に来て下さるとは何と光栄なことでしょうか、やっと初めて先生をお招きできたのですから私としても忘れられない1瞬でした。
先生は歩きながら会場を一周してくださり冬の雪景色の中にぽつんと立つ木をこれがいいなと言ってくださりました。
そしてお茶を飲んでいただき船越がそこでやっているので来たと言っていました。
これが先生との最後になってしまうとは思いませんでした。
写実の大家が私の個展活動を応援やってきてくれたのです。それから20年が過ぎ現在写実はすたれたでしょうか、とんでもありません、写実の時代が到来したと言えると思います。昨年スペインの彫刻家 画家フェルナンドロペスの男女の彫像は新しい具象の到来を意味していました。
今日時代はまさに新しい具象彫刻の到来を期待する土壌が出来つつあるのです。まさにこれからは具象彫刻が話題の渦中になるに違いありません。
ある画家さんが新しいものはすたれると言って抽象にむやみに走る若者を諭したということを思い出しました。
抽象は20世紀になって出現したもので100年足らずの歴史しかないことを考えると具象の歴史の長いこと3000年以上です。人類はかくも長きにわたってつずけてきたのですからこれからもつずくでしょうことは間違いありません

 

 

 


●57 西洋美術絵画彫刻の成り立ち

現代絵画彫刻は中世 近世  近代  経て現代に及んでいます過去三つのうち1つでも欠けたら現代は違ったものになっているはずです。
そのことは美術を学んだことがある人なら明快に理解できる事柄だと思います。
でもこれからお話しすることは少し驚きです。
実は我々が知っている近代絵画彫刻は中世時代ある教皇グレゴリウス1世による宗教政策が大きな影を落としているということをほとんどの人々が知らないからです。
それはキリスト教ローマ帝国が崩壊して東と西に分裂した時のことです東の教会が西の教会と意見が対立いたしました。聖像はイコンと呼ばれ西側のローマ教会ではゲルマン民族への布教に聖像(イコンと呼ばれ神、キリスト,聖母、聖者、殉教者などの画像や彫像を言う)不可欠となります。これらのイコンを礼拝することを教皇は正式に認めたのです。
時代はイスラム教徒が幅を利かせユダヤ教徒ユダヤ教を堅持してキリスト教と対立いたしておりました。
ユダヤ教イスラム教のⅠ神教ですが共通点は二つとも石や壁に信仰の対象者神様やアラーの神の姿を刻んだり彫ったりしていないということです。

それに対して西ローマ帝国の宗教関係者はやたらと像を作らせ描かせそれに向かって礼拝していることに気が付き始めます。

東の教会これをレベルの低い宗教感の表れで偶像崇拝と等しいと西側を非難ついに破門します。西暦1054年のことです。
それに対して西側は断固譲らずローマ帝国は西と東に分裂したのです。
現在でも東ビザンチン王国末裔ロシア正教会では中世のまんまの型にはまった母子像を描いています。彼等は西からミケランジジェロが誕生するとは予知もできなかったでしょう。歴史のうねりは聖像崇拝を奨励した西側の大勝利となりました。取り残されたビザンチンキリスト教美術は中世のまま現在に至っています。西はカラバジョやレンブラント、ベラスケスを誕生させロダンにつながるのです。何という違いでしょう

 

 

 

 


●58 プロテスタントの使命と限界
マルチンルターがグーテンベルク城に92か条の抗議文を貼り付け時の教皇に抗議したことがプロテスタントの始まりだとされています。
彼は何を抗議したのでしょうか救いです救いは7つの道徳的行いの完成などによってもたらされると当時されていました。
それが聖書を読むことができたルターは命がけで救いは信仰のみと致したのです。
このことは教皇カソリックにとってまずいことです。なぜなら金ですくわれるなどして免罪符などを時の教皇レオ10世が出してしまったのです。
信仰のみですくわれるなら多額の献金で苦しめられた富裕階層お金がない庶民もすくわれるにお金が要らないことが解れば多額の献金を支払わずとも天国に行けることになります。これは庶民や農民にはありがたいことです。
この勢いは宗教改革として全ドイツ中に広まり勢いをカトリックもおさえきれなくなりました。そして新教徒とも言われた。
神教徒は教会の中に所、狭しと置かれている絵画彫刻を剥ぎ取り破壊しまくったのです。これらのものを拝むことが偶像崇拝につながることを恐れたためです。
オランダの教会などはその最たる例です。

画家や彫刻家は教会からの仕事がなくなり静物画や室内風景画 風景 肖像画と言ったジャンルに腕を振るうここになります。レンブラントフェルメールはこうして出現致しました。
礼拝等からキリストの十字架刑の姿はなくなり白い十字架のみという極めてシンプルな今日的あるプロテスタント教会の姿が構築されたのです。
プロテスタント教会では説教にのみ十字架が語られるようになりイエス様の十字架のイメージはそのメッセンジャーによって表現が変わってしまいほとんど具体性を帯びない危険があります。信徒はイエスの血の贖いの意味があいまいになってしまい他人事のように聞こえるようになってしまうこともありうるのです。
信仰低迷になる恐れがあります。聖書を読んでイエスの十字架の御くるしみを個人的にイメージし視覚化してそのお姿に感謝できて信仰復活です。

 

 

 

 


人間は視覚的なものに依存して生きています。目で見てその人の人格や年齢を推察いたします。声だけでしたら若いのか年寄か解りません本人に会ってみて直接やり取りして信頼関係というものがなりたっていきます。
いくらコンピュウターで会議ができても取引の重要な局面では100年前と変わらぬ方法がとられています.視覚情報がいかに大切か本人と直に会うことがいかに大切か思い知らされます

優れた彫刻や絵画による宗教画は信仰をリバイバルさせる役割をかつてになってきました。今日では映画パッションがそのいい例でしょうこのようにして各時代視覚媒体は異なっても視覚欲求は変わることがありません。
教会から本物の絵画を締め出して聖画雑貨やレプリカ印刷の貧弱でみすぼらしいもので満ち溢れているのが現代のプロテスタント教会の礼拝堂の1例です。

その状態を見れば初めて来た人が教会にある憧れ抱いてきた方にとっては日常とかわらない現実を知って失望してしまいます。、どうしても視覚的情報が貧困ですとまずいと思います。少なくとも礼拝堂はシンプルで何もない空間がほしいものですこれからの課題です。
ある国連機関各国の家庭の持ち物すべて路上に出していただき写真に撮影したことがあります。ヨーロッパは長年使いつずけられた奥ゆかしい家具や椅子と言ったものが多くアンチーク市を見ているようでした。アフリカはあまりに物がなく牛と棒切れそれとベッドⅠつとバケツ食器類のみ言った物のない貧しさを感じました。

最も驚いたのが日本の平均的水準の家庭の持ち物です雑貨であふれかえっているのです。まるで百円ショップを見ているようでした。こうしたことが日本のプロテスタント教会にもあるということです。
安物雑貨で大切なものが見えなくなってはしないでしょうか、私は何も室町時代の茶室のようにしてくださいと言っているのではないのです。

 

 

 

 

現代は礼拝堂の空気を空間演出やインスタレーション的アート感覚で室内を神聖な礼拝堂のようにしてゆくのも大切なことかもしれません。何もプロテスタント教会に実材で作られた御影を復活させるようにと言っているのではありません
日常空間と同じにしてしまったことのつけが今日信仰喪失という状況を作っているのかもしれません
話が難しくなってしまいました。
●59 痩せた女
というテーマで130センチほどの作品を作りました。細部まで作れるようになりました
西洋人女性のモデルを使っています。日本人にはない筋肉や骨の現れ方がこの人固有なのです。イタリア系白人だと思いました。

●60  ロストワックス原型製作

本日は西多摩瑞穂町箱崎にある高橋君のブロンズスタジオをに行ってきました。鋳造の奥敬詩さんが待っていてくれました。私の蠟原型が出来上がっていました。見事にシリコン型も完成されていました。
いよいよブロンズ鋳造です。高橋君からもらった回転機でもう5体も等身大やっていることを伝えると驚いていました。井野さんが石膏とりしてくれているというとそれって井野さんを専属アシスタントとして使っているということジャンと言っていました。モデルの事も聞いたので適当にこたえておきました。
奥敬詩さんは22回造形大卒業生で抽象彫刻石でやっているそうです。
彼は私にガス型の事やまね型の事を詳しく教えてくれましたガス型とは砂型のことで一定の湿り気のあるある種の砂にガスを注入すると固まる性質を利用して鋳型を作るやりかたで、主に等身大を鋳造する時に使うそうです。
また鋳肌にはきめの細かいのを使うと実際の砂を見せてくれました。ブロンズは大きく分けて砂型とロストワックス法がありそれぞれ長い年月改良されてきた歴史があることを伺いました。

 

 

帰りは奥敬詩さんが車で途中まで道を案内してくれたので無事関越自動車道に乗れ関奥自動車道で厚木インターまで30分で来れました。ただし高速料金1850円取られましたが、大切な時間を節約できました誠に近くなったものです。7月5日土曜日
●61
ゆあみ2完成に
7月7日から針金で芯を作り粘土付けして今日で6日目、ようやく姿現したものの少々うつむきで顔が見えなくどうしたものか悩みました。ところが今日になって修正し顔をしょうしょう上に向け顔が見れるようにいたしました。ようやく彫刻の見せ場の誕生です。細部まで作り込もうと思い始められました。顔や腕の位置の固定には細い針金を巻きつけるようにして固定いたしました。これで安心して作りつずけられます。最近の具象彫刻家先生方々は顔はどうでもよいのです。と言っていることを井野さんからうかが
たことがあります。これはとんでもないことです。まず人は体全体よりまず顔立ちを先に見ます。そして体全体を見ていきます。これは人と人が出会うときいつも同じことを何万回も繰り返します。彫刻を見るときもどんな顔立ちかみます。顔ってほかの部分の約7倍も注意深く作らねばいけないと思います。

   

●62
杉山紀幸さん(1940~)  作家 デザイナー


私のアトリエがまだギャラリーこまと言った時代に私の同級生岩本弘道君と一緒に夜こられたのが最初の出会いです。
杉山さんは普通の人と違うのは芸術作品にたいして若い画学生のような感受性を御歳60歳後半になっても失ってないということです。杉山さんは私の冬の木F10号の油絵作品を見た瞬間私の廊下に座り込んでしまって小泉さんこの木の絵には命があると言ってくれた人です。
私の作品を見てそれ程感動してくれた人に出会ったのは初めてです。当時自分や自分の絵に自信を失い欠けていた当時の私に明るい希望のお言葉くれた人です。その後、私の方からの15歳年長の杉山さんスタジヲに私の作品を持ち込みいろいろと批評をしていただいてきました私にとっては芸術上のアドバイザー的な役割してくれる兄のような方です。
私はこの方の優れた感性にいつも期待して頼りにしています。
杉山さんは普段日常的に絵画彫刻制作をされてはいませんが、近年小説を出版されたりして作家活動のほうに力を入れておられ私もその作品を読ませていただきました。
私には巧みな文章による情景描写に吸い込まれたことがあります。その描写はとても視覚的で絵画でも見ているかのような感じがあります。やはり杉山さんはデザイナーと作家という2つの表現世界を持っておられる人であるからこそそうした表現ができるのだと思いました。アンネフランクの小説書きたいと将来に希望を持っておられる杉山さん期待しています

 

 

 

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小泉正彦著

 彫刻家 1955年生まれ1978年東京造形大学造形学部美術学科彫刻専攻卒業(佐藤忠良に指事する)1978年神奈川県美術展大賞を受賞する セントラル油絵大賞展(2回)1991年昭和会賞展招待出品(以後2回)オーストラリア美術賞展銅賞受賞1992年現代絵画東京展招待出品以後3回日本の絵画展招待出品(松坂屋)(1991年5月号紳士向けの月刊誌ラルゴに掲載され一躍樹木を描く画家として取り上げられる。のち個展を中心に銀座で発表1993年。日仏現代美術展で日本テレビ奨励賞を受賞パリグランパレにて展示 その後、銀座で個展~2002年銀座あかね画廊個展開催 京橋オルテールで2012年~2013年個展 を中心に発表活動、渡欧フランス オランダ ポルトガル イタリア に滞在して現地視察スケッチなど制作
活動をする。現在に至る。現代の洋画マリア書房連載
2008年中郡大磯町高麗ギャラリーこま開業
2014年現代具象彫刻研究所設立 代表を務める 

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あとがき

人は様々な人々に出会って彼らの言葉で成長し現代人として社会に適用していきます
私も多くの方々のお言葉を賜りこれまでやって来れました。その方々には言葉に言い尽くせぬ恩を感じています。これらの文章は私の記憶にのみとどめるのみならず、多くの方々にお伝えしたいがために書き始めました。途中読みずらい言い回しなど多々あろうかと思いますができるだけ実際に語られた言葉に忠実に再現したつもりでおります。宜しくお願い致します。